自分の機嫌を自分で取る

4年位前からだろうか。新年度を迎えて目標を立てる時、いつも書くことは「自分の機嫌を自分で取る」だった。

訳も分からず自分の感情に振り回され、文字が読めなかったり話が頭に入ってこなかったりしては落ち込み、かと思えば急に万能感に包まれて散財しては後悔してきた。

落ち込んでいる時は涙が止まらない悲しさで眠れず、たまにやってくる元気な時はとにかく頭がさえて、寝なくても大丈夫だと過信して眠れなくなる。

睡眠量は年々少なくなっていって、1週間の睡眠時間が10時間を超えないことは今では珍しくもなんともない。


どんなに調子が悪くても歌だけは手放せなかったから、スピッツのとある曲の歌詞を借りるとまさに「倒れるように寝て/泣きながら目覚めて/人混みの中でボソボソ歌う」という感じ。


だから自分の機嫌を自分でコントロールできる人に憧れた。高校1年生の時は初めての満員電車でもみくちゃにされたり、難しくなった勉強についていったり、新入生歓迎会でひとめぼれした先輩を横目で盗み見たりととにかく忙しかったが、その先輩を追いかける形で入部した吹奏楽部で必死に練習した部活終わり、メトロノームを見る時間が一番好きだった。

チッチッチ、と規則的に動いていって、指定された以上の振り幅は決して見せない。実際の私はメトロノームに合わせて基礎練習をすることすらままならなかったのだけど、彼らの規則性はひどく心を落ち着かせてくれた。

もしかしたら私たちが部活を終えて楽器庫が空になった時に彼らは普段誰にも見せない表情で踊り狂っていたのかもしれないが、それはあくまでも「誰にも見せない表情」のままだったし、それを貫けるメトロノームが持っている、ぴんと糸を張った時のような静寂感と連続性がうらやましかった。


静寂感と連続性。いつも心の中でいろんな人の声がざわざわして、結局何に従ったらいいのかわからなくなる私にはどちらも欠けているのだと思う。

ざわざわを自ら作り出して、聞きたいと思う自分の声までわからなくなるのだから自分でも行動に一貫性を感じられないし、そもそもスーパーボールみたいな軌道で跳ねていく感情が私を均してくれない。

結果、元来の性質とこれらが悪い相乗効果を発揮してとにかく考えすぎる私が完成した。こうなってくるともはや機嫌を取る云々の話ではなくなってしまう。知らず知らずのうちに自分から自分を悪いほうに追い込んでしまうのだ。

例えば、自分のことをセルフネグレクトしてしまう。自分のことを大事にしない人と一緒にいようとする。いつまでたっても何かにつけて安定しない生活を送ることになる。そしてそのうちそういう自分に嫌気がさして、私を私たらしめる基盤を自分自身で否定してしまう。


数年前、関係性が変わって横目でこそこそ盗み見る必要がなくなった人に「あなたには現状を我慢する能力がない。しかしその現状を改善したり逃げたりする能力もない。それならずっとそのステージに立っていたほうがましだ。」と刺されたことがある(特に、当時の私にとってはめった刺しだった)。

ちょうど過呼吸を起こしうつぶせの状態で倒れていた時だったので、私を的確に突き刺したその言葉はそのまま床を通り抜けブラジルの皆さんにまで届いてしまうのではないかと思われた。だけど次の日のニュースは、ブラジルで起きた怪奇現象を報道したりはしなかった。


その日からは、完治しない背中の刺し傷が時々痛む。あの時の私から比べれば、現状を変える努力はした。その結果自分の甲斐性で大学生活を送り(将来の私頑張れ)、地元から離れた土地で生きることにした。遠慮なく私の甘さを叩いて刺してくれた、誰からよりも褒められたかった人も頭をなでて祝ってくれた。それでも痛む。

痛む理由がつかめないまま激しい感情や体調の起伏を飲み込みながら生活していたけれど、ついこの間ようやく目が覚めるような出来事がありわかった。環境は変えたものの私そのものは何も変わっておらず、考えすぎる性質のままなのだ。

自分に自信がなくて「マイナス思考の時の自分は悪い子でプラス思考ができている時の自分はいい子」だと思っている。何日寝ていなかろうが食べていなかろうが人に迷惑をかけていない以上平気だ。


つまり、私が私を大切にしていないこと、そしてそのせいで大事な人まで大切にできていないことがこれから変えていくべき部分なのだ。


それからはふたつのことを意識している。


ひとつめは考えすぎる必要はどこにもないということ。その考えすぎる性質を「優しい」「思慮深い」だとかのポジティブな言葉に置き換えてくれる人たちのおかげでここまで生きてきた。

けれど、「ただ繊細過ぎる狭量なネガティブ」と「広い視野で敏感に思慮深く物事を捉える力」はやはり違うのだ。

先日、再度ある人に「そうやって考えすぎるから勝手に病んでいくんじゃないの」と会話の途中で言われた(これは面と向かって言われたものなので腹部の刺し傷ということになると思う)。全員が当てはまるかと言えばそうではないと思うが、個人的にはやはりその通りだと納得せざるを得ない痛みだ。

「もう少しね、自己中心的に生きていかないと。」とその人によって締められたその会話は本来何について話し始めたものだったか忘れてしまった。

だけどその時、心の中にふと、いつまでも火が消えないような小さくて細いろうそくが立った。その火は私に「しなやかに、自己中心的に、」と語りかけてくる。この火を、このろうそくのことを信念というのだと思った。


ふたつめは俯瞰することだ。私はよく解離するが、解離と俯瞰は似ているようで全く違うと思う。

正確に言えば「感情の振れ幅に余白を持たして、その余白から自分を見つめる」といった感じだろうか。


これまでの自分を振り返って、0を基準に-100から100の中で動いていた感情を-80から80の中で動かすように努力することは至難の業だと思い知っている。それならばと、自分の心のスペースを-120から120で取って(みた気になって)みることにした。


そうすれば強制的に余白をつくれるのだから、そこに自分の身を置けばいい。「あー私なんか楽しいんだろうな、人生最高とか思ってそう笑」「うっわ今ガチ落ち込んでんじゃんうける。まあ、そのまま死ななきゃそれでいいわ」といった感じで外側から自分を見つめてみるのだ。


これができると、自分に対して「否定」する必要が無くなった。なぜなら、アクセル全開で襲ってくる感情が自分のすべてではなくなったから。


ネガティブな時もポジティブな時も全部自分として受け止める自己肯定感の力がついたことによって感情爆発の二次被害で感情を爆発させる機会が格段に減り、気持ちがとても楽になった気がする。


この世には、私のことを大切に思ってくれている人、大事にしてくれない人、なんとも思ってない人、大事にしたくないと思った人、大事にしてくれようとしたのにほんの少し大事にする方法がほかの人と違った人、かかわらないまま互いの人生を終える人、たくさんの人がいる。


だけど「『こういう人たち』と『私』」で世界が構成されているのではなくて、私も多くの誰かのことを「なんとも思ってない人」として世界を構成しているひとりなのだと思うようになった。

何かを諦めて投げやりな気持ちになっているのではなく、根拠のない自意識から少しだけ逃れた結果、私は今、世界を構成しているただのひとりとしての自分に「あなた一人がああだこうだ悩むのには限界があるのだから、少しは肩の力を抜いて歩きなさい」と伝えることができるようになったと思う。


ぐだぐだと色々なことを話してしまったが、つまり私がこのnoteで言いたかったのは「賢いエゴイストになりたい」ということだ。


前期、受講していた哲学の授業で「究極の利己主義は究極の利他主義」であると学んだ。これは自分が究極的に幸せになるには自分の周りの人も究極的に幸せでいる必要があるという意味だったと記憶している。


この「利」「幸せ」の意味をはき違えず自分を大切にして過ごすこと、それができるようになったら賢いエゴイストになるために行動すること。


その過程で人の幸せにかかわれる人間になることができたらいいし、たくさん受け取ってきた「あなたのことが大事だよ」という気持ちと、その気持ちを形にして私に渡してくれた人たちのために、今度は私が別の人に渡せるようになりたい。


今周りにいてくれる人たちのことが、大好きでしかたない。私は今、自分の機嫌を取れている。