君の言語の限界は、君の世界の限界

自分の気持ちをアウトプットするって、とても難しい。限りある語彙の中でどうにか説明しようとしても、今こみ上げている感情にしっくりくる言葉を見つけようとしているうちに、その感情が溢れすぎてなくなってしまうから。

波を引かせて、身体を出ていった感情の残像は、どんなに追いかけても答えを教えてくれないまま。そうなってしまえば、いくら名残惜しくても「名前をつけて保存」ができない。せっかくのこの身震わせる感情たちも、無機質なファイル名のままフォルダに溜まっていってしまう。エクスタシーのあとは、焦燥感と味気なさしか残らない。


そんな時思い出すのが、
「君の言語の限界は、君の世界の限界」

シュレディンガーと哲学する猫、という本の一節である。

言語であらわす生き物にうまれた私が、言語であらわせないということは、それが「私の世界の限界」なのだ。無論様々な解釈があるが、語彙の量がその人そのものをあらわす、と考える私にはとてもしっくりと馴染む考え方だ。一度本を閉じ、「言語世界が豊かになれば、おのずと自分の世界の豊かさにも気づくのだろう」とひとりごちたのを覚えている。

一時期は感動のあまり、「いま自分はどう思っているか」の「どう」の部分をくっきりと輪郭あるものにすることに執心していた。だけど「どう思っているか」すら定まらない18歳がすると、ただ深みにはまっていくだけだった。

だから、豊かさを焦って追い求めてはいけないと今なら少しわかる。今はまだ、青く堅く熟れていない感情、押しては引いてくる波のような感情に適当な名前をつけられず、持て余しているくらいのほうが肩の力を抜いて育てられると思うようになった。

だから、気持ちを書き出す。
外堀を埋めていく。
最初から答えを見つけなくてよいのだから、まずは最適解を見つけたい。

外堀で覆った気持ちの海をゆっくり掬うのは後からでよいのだ。

いつか手のひらで大切に掬いあげて、陽光に透かしたくなった時のために。いつまでたっても触れられない核心を、いま、私の言語の限界世界の中であらわしたい。

そのうち、核心を触れられるようになった自分の心をもっともっと震わすために。