だって、みんな、当事者だろ。

私の、たくさんある大志のひとつ。性的マイノリティ者に対する偏見をなくすこと。性的指向や性自認に悩む必要がなくなる社会づくりに関わること。そして、そういう目標をもって生きている人のことを、多くの人に知ってもらうこと。


性的指向とは主に恋愛感情や恋愛感情を抱く相手の性、性自認とは自分の性についての認識であり、ざっくりとした説明をするだけでも似て非なるもの。それでも混同している人は多いと感じるし、優先すべきは本人のアイデンティティであることも多くの人に知ってもらいたい。


私も、自分の性について8年ほど前から悩んできた。私はバイセクシャルだ。つい最近まで誰にも話さなかったし、修学旅行のお風呂などで、「こんな自分がみんなの体を見てしまって申し訳ない」と思っていた。また、カミングアウトをした後で、仲の良い友人に「修学旅行やプールの着替えで、もしかしたら自分はそういう目で見られていたのかもしれない」という嫌悪感を抱かれるのも怖かった。「あなたのことは性的な目で見ていないから大丈夫だよ」と伝えるのもおかしい話だと思ったし、逆に性的魅力を感じていないのもそれはそれで複雑な気持ちにさせるのかな、なんて思考のどつぼにはまっていた。要は、嫌われたらどうしようとばかり思っていたのだ。


高校生の時も、英語の授業中に和英辞典で「性別」と調べてみるくらいには悩んでいた。当然genderと出てきたし、もう何回も目にした単語だった。しかし、その時私は、今まで知らなかったことにも気づいてしまった。genderは不可算名詞だったのだ。つまり、数を数えられない名詞なのである。


もちろん可算名詞の意味も持ち合わせている。でも私は敢えて、これは「現在を含めた未来のための不可算名詞であるのだ」と述べたい。本来性とは、色分けや線引きを使ってカテゴライズできるものではないと思う。それでは結局細かく分類してカテゴリーを量産するだけで、どこかで必ず排他的な考えの人が出てくるのは変わらない。せっかくの「多様性」を分割して各パターンに押し込めるだけで、それを苦痛に感じる人がいることに気づかないまま終わることになるのはとても苦しい。そうではなく、多様性の本質は、グラデーションなのだ。


「グラデーション」というとらえ方はすでに実践している人が多く、たとえば逗子市の教育委員会でも使用されている表現だ。同委員会ではセクシュアリティの要素について「人によって異なるため、わからなくても決めなくてもよい」としている。私は特に、「誰もが多様な性のあり方を自分のこととしてとらえることができる」という一文に共感した。ということはすなわち、ほんとうは全員が「当事者」なんじゃないのかな。


だけど、世の中にあふれるニュースを追いかけている限り、この、全員当事者論はまだまだ理想論のように感じる。私自身冒頭で述べたものの、身体の性より心の性を優先した際に生まれる問題など、実際に起きていることに対して、「当事者」としてはっきりとした対応策や答えを出すことができない。


それに、セクシュアリティについてだけ解決してもみんなが幸せでいられる世界はつくれないし、セクシュアリティ自体がそう簡単に解決策をつくれる話ではない。それでも、これまでに何人もの人が「性」、そして「生」までもを諦める原因となってしまったこの問題に「当事者」として関わる勇気と、自分の中の普通を疑う想像力をもつ努力をしていきたい。


公の場で繰り返される残念な発言に様々な反響もあるけれど、今の自分の価値観が50年後もモラルとそぐうとは限らない中で、50年前を生きていた人の無理解を人格否定にまでつなげる気にはなれない。問題なのは50年前を生きていたことではなく、今の時代を生きようとしないこと。声なき声に耳を傾けないこと。そしてこれらは自分たちだって常に求められている。


でもね。


認めたくないなら認めてくれなくていいよ。
ただ、私たちは今日も存在してるだけ。

こんな悲しいことは誰にも言わせたくないし、言わせる社会は許せない。



「私は当事者ではないから」や「弱者だから、強者の私達が守らなきゃ」という区別はいつか差別になり、差別はいずれ苦しみを生む。genderとは、数で表すことのできない、グラデーションの世界に生きる「不可算名詞」なのに。

だからみんなで「いま」を生きたい。
だって、みんな、当事者だろ。