4月になって。


通信で大学に通い始めた。
毎日、学んだことが学びになっている。
「学ぶ」ということと「学びになる」「学びにする」ということは全く異なるのだと初めて知った。

一義的で平面的な自分の考えや解釈が、少しずつ多面的になっていくのが面白くて仕方がない。
しかし、そうして初めて出会ってキラキラ輝いて見える新たな解釈は「わたしもまた一義的なものなのだよ」と教えてくれる。
だからこそ固執せずにこだわらずに、さらに勉強しようと思うことができる。
学生としての自分は「学びのきっかけをキャッチして自己学習に繋げる側」であるし、だからこそ謙虚に過ごせるが、生きている中では場面によって「学びのきっかけを与える側」に入れ替わることだってあるだろう。
例えば私自身、同じ職種での勤務歴が多少増えて「教える」難しさに苦慮する自分も、同じ「私」の中に存在する。
しかし大学で出会った新しい学び(私がワクワクした学び)でさえも自分を一義的と認めて謙虚であることを知り、どちらの側に立つ場合でも固執せずこだわらず、いつまでも謙虚でいなくてはならないのだと知った。

ペースをつかみ出した今でこそ楽しく学習できているが、はじめは挫折するのではないかと誰にも言えない気持ちを持っての入学だった。
勉強したいときにできなかった悲しみを抱えて、勉強に恋焦がれているうちが華ではないかと。
そのような卑しい感情がじつは私にはあるのではないか。ようやく勉強ができる環境が整っても、大切だったのは「勉強したがっていたあの頃の自分」だけで、実際にやり切ることができないのではないかと。
だが、その「勉強ができる環境」を整えたのは紛れもなく自分であり、誇れることだ。
おそるおそる選んだ授業をとても興味深く感じることができて安心してからは、着実に堅実に向き合うことができている。

社会に出ると(といってもフラフラしているが)、あの頃よりはよほど時間やお金に対する感覚や遣い道にはシビアになり、学習時間もより有効に使うようになった。
かといって豊かさを殺すようになったつもりはなく、心の豊かさがあるから(または豊かさを保持したいから)ゆえ求めるわくわくの種類が変わってきただけだと思っている。

もちろん勉強に根を詰めすぎても楽しくないし、仕事のペース配分を見誤ると疲れるし、等しい教育を受けた学生時代の友達と別々の道に進み始めて皆の生きていく舞台がそれぞれ異なっていく物悲しさを受け止めることは難しいし、これまで様々な場面で数多く義理を欠いてきたことへの後悔は尽きない。
なかなか大人になりきれないまま、毎日できることだけ頑張って過ごしている。
それでも死にたいと思うことはもう一切ない。
これを書いていて、死にたいってもうずいぶん考えてないわ、と気づいたくらいだ。
忙殺されていたわけではなくて乗り越えたのだと思う。包み、包まれることができたのだ。

これが理解できてからの「学習」という行為は本当に身体の中にすっと染み入ってくれる。
きっとここが私のベストタイミングだった。
ストレートで学位を取得することは今の(自分が主体的に獲得した)環境的に現実的ではないと思うが、どこかで休んだとしたら、その後の学びは更に「学びになる」ものだろうし「学びにできる」自信がある。

「学ぶ」ということと「学びになる」「学びにする」ということは全く異なる。
20歳、まだまだ子どもだが
未来は尊いと思えるところまできた。

完璧な人間には誰しもなれないが、だからこそ自分を慈しんだり、強みに気づいたり、だめな部分を受け止めてときには成長する糧を得られたりする。

もう少し自分のための時間を過ごしたら、今度は人を大切にできる自分になりたい。