これまでとこれから



なんとか、ここまで生きてきた。
なんとか、ここまで安定させることができた。


社会に出て自分の土台の無さを知って、
それを生まれ育った家庭のせいにするのは言い訳しているようで悩み続けて、
自分のアンバランスさについていけずに泣いて、
何者かになる必要はないはずなのに、これから何者にだってなれる年齢な分、何かになることを期待してしまうくせにその力はなくて、

大袈裟でも何でもなく、苦しいこと続きの生き方しかしてこれなかった。

そういう自分を受け入れるのには時間がかかった。もう無理だ、私は私に付き合いきれないし、周りもそうなはずだ、と今でも思う。



死にたい。

いくら人間が生きていく意味が「生きること」にあるのだとしても、もはや目的を達成する気になれない。
体に刻み込まれた「あなたは要らない人間」という評価はいつまでも抜けない。

衝動的な発作のように死にたいのではなく、19年間ずっと穏やかな気持ちで死を望んでいる。

もう中高生の時のように夜通しキッチンで包丁の柄を握りしめて、涙と脂汗を流しながら昇ってくる朝日を見る程の悲しみのやり切れなさはないけれど、それでも死にたい。

もう高校を卒業したばかりの時のように、お金がなさすぎて生きていかれなくて悔しくて、親には大袈裟だと言われ、そのうちに自分の貧困を隠すようになった時のような悲しみのやり切れなさはないけれど、それでも死にたい。


それは多分、腹がたつほど、社会の「ふつう」に対して自分の環境が迎合してないから。

それをひけらかせば「環境のせいにして可哀想な子アピールすれば、特別措置を取ってもらえると思っちゃって。」となるし、それを隠していれば「あの子は他の子となんか違う。」という理由のわからない違和感だけを他人に与える。



学生生活はそれで無駄にした。
家で安心して眠れなかったから、受験期も座学の授業はほぼ全て寝ていた。
何度も倒れて迷惑をかけた。
いろんな人が離れていった。
離れていかない優しい人たちもたくさんいたのに、怖くて私から離れてしまった。
そして長い間、私を大切にしてくれない人と一緒にいた。

本当に幼い。バカなままだと思う。



人生は「他人のせいにせず自分の力で何とかしなくてはならない」と思ってからが一人前へのスタートだ」というような文を見たことがある。

たしかに私は自分の環境にある意味甘えている。
この環境のせいにすれば人生楽ゲー、なんて思っていないけど、本当は「思っていない!」と思い込んでいるだけなのではないか?と不安になる時があるのがその証拠なんだろうな。



私はただ、今を生きたい。

次世代を生きる子どもや、私が一緒に生きていきたいと願う人たちの「生きる希望」までにはなれなくても「死なない理由」になりたいと思う。


これまでずっと、社会から死んでいいよと言われている感覚だった。


でも、ただ、ちゃんと、生きたい。

なるべく小さな幸せとなるべく小さな不幸せを、大好きな人たちと分け合って生きていきたい。

自分の機嫌は自分で取って生きていきたい。

周りの人を幸せにしたいから、まず自分が幸せになるように生きていきたい。

愛した人に「生まれてきてくれてありがとう」「あなたと生きていきたい」と言ってもらえるような人生にしたい。


ただ、ちゃんと、生きたい。
だから、ただ、ちゃんと、生きようと思う。