「望ましい社会の萌芽」

 ――この時代を絶望しようとすれば事例に事欠かないけれど、それより、望ましい社会の萌芽がどこにあるのかを見つめることこそが大事ではないでしょうか

 酒井隆史さんが毎日新聞のインタビューに出ていた。今年4月に出た新著『賢人と奴隷とバカ』にまつわる話。本出てたの知らなくて即注文して昨日届いた。こんなに読むのが楽しみな本があるのは本当に久しぶりな気がする。
いやでもそういえば西加奈子の新著もあったし(めっちゃよかった)ハンチバックも早く読みたいしなんやかんやいろいろあるわ。

 酒井隆史さんといえばグレーバーが急逝した時の『世界』への寄稿がとても素敵で何度も読み返した。

――その知的能力は、支配的な知的態度とは正反対にはたらいた。そうしてはだめだ、こうしてはだめだ、それは不可能である―国家は必然である―、そしておもむろに、これからの世界の道筋(たいてい一つか二つ)を描いてみせる(要するに指導する)わけである。このように不可能性に知性を捧げることは、リベラリズム、保守主義、そして正統的マルクシズムと呼ばれる部分をもふくむ、知的態度におよそ共通するものである。ネオリベラリズムがその風潮を強化させているとはいえ、ひとに対して、そんなバカなこと考えるんじゃないよ、そんなことは不可能だよ、夢みたいなこといってんじゃないよ、なんとなれば、というふうな語り口で優越感にひたりたい誘惑は、知的活動に携わるものにつきまとう罠である。ところが、グレーバー、そしてグレーバーのいう人類学とアナキズムは違う。その発想いいね、おもしろいこと考えるね、それも可能だよね、実際やったひとたちがいるからね、といったふうに、可能性を開くために知的能力が捧げられるのである。しかも、その可能性も、いまここにない未踏の理想という領域のものでは必ずしもない。人類のほとんどがやってきたこと、あるいは、いまここでやっていることのなかに、つまり、この地球のすべての民衆の知と実践のなかにひそんでいる。知性は潜伏したそれらを注意深く聞き取り、その意味を開示することにむけられる。別の世界は可能だ、あるいは、別の世界はすでにいまここにある。資本主義の外は、いまここにある。

 「別の世界は可能だ」。そのヒントを『負債論』『官僚制のユートピア』『ブルシット・ジョブ』といった著作で示してくれたのがグレーバーであり、訳者である酒井隆史さんだった。
 この世界で生きて行くのは嫌で嫌で仕方なかった。けれど、そうでないあり方を考えることが出来るし、私たちの働きかけによって現実のものにすることもできる。そう思わせてくれる、「望ましい社会の萌芽」こそが私にとってはグレーバーの著書であったし、他にも小説や音楽、もっと身近なところで言えば何人かの近くにいた大人たちでもあった。

 ついでに、そういう世界や思想を知らせてくれたのは新聞記事でもあった。今、自分がそれを書く立場になったからこそ、そうした動きに加担したいと強く思う。全然できてないけど!

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