社会人3年目に入った

 年明けぐらいから、降ってくる仕事を思考停止でこなすだけの毎日で虚無なうえに忙しくて疲弊していた。けどそういう時に、お世話になった人と数年ぶりに連絡を取れたり、自分の役割を再確認させられる出来事に遭遇したりするので不思議です。おかげでもうちょっと踏ん張れそう。

 とはいえ仕事をしながら、これを書いて何になるんだろうと思うことも多い。業界の斜陽ぶり以上に、人口減少とか災害とか政治的無関心とか差別とか不平等とか、そういう現実に触れるたびに虚無に陥る。

 そんな時にいつも読み返すのが、丸山眞男の「『現実』主義の陥穽」。学生時代に読んだ、朝日新聞論説委員・高橋純子氏のコラムで知った。

 ――現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。(丸山眞男「『現実』主義の陥穽」)

 上に挙げたような事象や、原発や安全保障の問題を語るとき、「現実的に考えて」という枕詞をつける人は多い。脱原発や絶対的平和主義を叫ぶより、そうした主張を「現実でない」と批判し、再稼働や軍備増強の議論を進める方が賢く見える。
 しかし丸山は、「現実とは本来一面において与えられたものであると同時に、他面で日々造られて行くもの」だと言う。「現実」の所与性が「私達の自由なイマジネーションと行動を圧殺していった」と、太平洋戦争へと突き進んだ経緯を総括している。
 さらに、本来多元的であるはずの現実の一つの側面だけが強調されたり、その時々の支配権力の選択が「現実」的と考えられたりするのだと、日本人の「現実」観を批判。そのうえで次のように言っています。

 ――私達は観念論という非難にたじろがず、なによりもこうした特殊の「現実」観に真向から挑戦しようではありませんか。そうして既成事実へのこれ以上の屈服を拒絶しようではありませんか。そうした「拒絶」がたとえ一つ一つはどんなにささやかでも、それだけ私達の選択する現実をヨリ推進し、ヨリ有力にするのです。これを信じない者は人間の歴史を信じない者です。(同上)

 そういうわけで(どういうわけで?)、賢いように見えて実は既成事実に屈服し、現状追認に走っているだけの大人になるのではなく、私が私のまま生きられ、それと同じように他者の尊厳も守られる、そういう当たり前に大切だけど人類史上いまだ達成できないでいる社会をつくるため、今この場所でできることを精一杯やっていくのみです。日本語やば。おしまい

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