ジェンダーとか女性差別とか

 同業者が集まるジェンダーの学習会に参加した。諸々学びにはなったけど、モヤモヤする会でもあった。男性中心の社会や家父長制を批判する人たちの作り出す空間が、きわめて同質的かつ排他的だったからだ。自分たちにとって不快な主張や相容れない他者の意見を「分かってない」「もっと勉強しろ」と断じ、話を聞こうともしない姿勢は、彼女たちの嫌う「おっさん」たちの振る舞いと何ら変わらない。標榜する正義が異なるだけで、構造的には同じではないか、と思った。

自分のコミュニケーション能力の欠陥を棚に上げて、相手を理解力のない馬鹿だと思う。他者への想像力の欠如したそのような下品な態度がブッシュの本質であるならば、それがたとえブッシュ本人に対してであれ、こちらは決してそのような態度をとるまいという決意こそが、真の意味での”反ブッシュ”なのではないかと、僕は思っている。――是枝裕和『歩くような速さで』

 上記は是枝監督がエッセーに記した、カンヌ映画祭でマイケル・ムーアの「華氏911」が上映された時の、観客の揶揄に近い笑いへの居心地の悪さについての考察である。私がジェンダー学習会で抱いた違和感も同種のものだったはず。しかし、問題をジェンダーや女性差別ではなく人種差別や部落差別に置き換えると、はたして私は同様の感想を抱いたのだろうか。

 人種差別に抗議する人たちがレイシストをなじり、そうした主張の一切を排除しようとする態度を表明することや、部落差別撤廃を訴える団体が、同和地区のリストを記した本の出版禁止やウェブ掲載禁止を求めて訴訟を起こすことに、私は違和感を持たない。差別されてきた人に対して、「こちらは決してそのような態度をとるまいという決意こそが――」とは口が裂けても言えないと思う。
 これは私自身が、性差から生じる不平等をそれほど重大な問題として捉えられていない、あるいは社会の中で女性差別が人種差別や部落差別ほど問題化されていないことの証左なのかもしれない。生まれ持った、本人にはどうすることもできない属性だという点では、人種や出生地も性別も同じだからである。

 この違和感をどう捉えるべきなのか私はまだ全然分かりません。考え続けたいと思うので、備忘のために記しておく。

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