「そういうもの」について

 「そういうもの」というのが昔から苦手。働き始めてからもそれは変わらず、自分が納得できないことはやりたくない。会社員なので基本的には従うけど、意味あるんかこれとか思いながら、ずっと文句を言いながらやっているし、時々やらない。
 今一緒に仕事してる先輩は私とは正反対で、求められたものを早く正確にこなすのにものすごく長けている。「粛々と」というのはこういうことかと見ていて思う。やりたいこともやりたくないことも特にないらしく、それゆえにどんな仕事でも一定の成果を出し続けているのですごい。めちゃくちゃ一緒に仕事しやすい。
 社会人として望ましいのは先輩のようなタイプなのかもしれんけど、言われたことだけやってればよい職業でもないので私のような者にも一定の居場所はある。ありがたいことです。

 ある時、与えられた仕事に対して何の意味があるのか分からんとぶつぶつ言ってたら、その先輩から「それは100mを9秒台で走ることに何の意味があるんですか、って短距離選手に聞いてるようなものでは」という旨の指摘をされた。そういう仕事だからそうする、それがこの職場において価値があるとされることだからそうする、それ以上でもそれ以下でもないとのこと。
 なんか妙に納得してしまった。というかぐうの音も出なかった。まさに「そういうもの」であって、「そういうもの」でしかないという、ただそれだけのことだと、ああ仕事も結局はそうなのねそうですよね今までもずっとそうでしたわ、みたいな感じになった。

 しかしそうだとしても、100mを9秒台で走ることを目指すにあたって、自分なりの意味付けというか解釈を持っておいた方が良いのではないかと個人的には思う。なぜなら私は私の人生の主体でありたいからです。9秒台で走れない人、走ろうとしない人を糾弾したり排除したりするような人間にはなりたくないからというのもある。
 一方で、意味とかは横に置いてとにかくひたすら9秒台を目指してみることも時には重要で、私にはそういう姿勢が欠けている。そしてたぶん今、自分には9秒台はおろか100mをトップスピードで走り切れるかも怪しいぐらいの実力しかなく、そんな奴が「9秒台で走ってなんか意味あるんですか?」とか言っても相手にされるはずはない。よってとりあえず速く走ることを目指して与えられた課題をこなすのが今やるべきことなんだろう。
 そういうふうに落としどころを見つけながら、自分を納得させながら、「そういうもの」と向き合っていけばよいのだろうと、現時点では思っている。でも努力して9秒台に近づけば近づくほど、その価値を再考するのが困難になるだろうし、だからやっぱり「そういうもの」とのお付き合いの仕方はとても難しい。もちろんこれは全て例え話で、本当に走るわけではない。
 

そういうことを書いてあったブログを備忘のために貼る。おしまい。


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