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[書評]ロジェ・ニミエ『ぼくの剣』-憎悪の決断主義

軽騎兵の世代

彼らは反抗者ではなく、不作法者なのである。ただ、彼らの虚ろさが人をおののかせるのだ。この虚ろさは、何一つ信じない一世代のそれである。
モーリス・ナドー『戦後のフランス小説』

1945年に20歳を迎え、文学の領域ではサルトルの実存主義に反対し、政治の領域ではアルジェリアの独立に反対する右翼的な反ドゴール主義の立場に立った若手文学者の世代を「軽騎兵の世代」と呼ぶそうである。そう呼ばれた若い作家たちは自分達を一括りにするようなレッテルを好まず、もっぱら批判者にこの名称は使われた。「軽騎兵の世代」の名付け親であるベルナール・フランクは若手世代の反戦後的特徴――例えば対独協力作家(ドリュ・ラ・ロシェル)への共感――に警戒心を示し、彼らのことを「ファシスト」と呼んでいた。

「軽騎兵の世代」という名前は、この世代の代表格であるロジェ・ニミエの『青い軽騎兵』という作品に由来する。1925年に生まれ、1945年に20歳を迎えたニミエはまさしくこの世代の精神を代表する作家であると言って良い。腐敗した共和政、祖国の敗戦、ナチス・ドイツによる占領、そして連合国軍による解放といった政治的にも思想的にも浮き沈みの激しい時代が、自身の多感な青少年の時期と重なっていたニミエは、大人達のあらゆる主義・主張に対して極端に懐疑的にならざるを得なかった。さらに彼にとって我慢できなかったのは、時代の激しい流れのなかで状況適用を専らにするフランス人だった。イデオロギーに対する不信感と、偽善的に生きる大衆に対する怒りは、ニミエの作品において軽蔑心や憎悪となって表れる。

「40年7月と44年の夏の光がまざって」しまったニミエとその世代にとって、戦後に大手を振る実存主義、ゴーリズム、共産主義なども、戦前の国民革命(ヴィシー)や対独協力、ファシズムと大差のないイデオロギーであり、過去を顧みないで戦後的なものを真面目な面を下げて信奉する連中は現実を見ない偽善者としか彼らの目には映らなかった。

もはや信じるという行為そのものが欺瞞的で、真剣に何かに真っ向から反抗することも馬鹿馬鹿しかった。しかし大衆のように周りに流されて生きることやニヒリズムに浸ることも良しとはしない。一先ずはあらゆるものごとに無関心と挑発的態度を貫く無用者を装うことになる。だがそれも長続きはしない。いずれそのような自分に対しても嫌気がさしてくる。ならばこの情況で何が可能なのか――

『ぼくの剣』

23歳の時、ニミエは処女作『僕の剣』をガリマール社から出版する。日本語訳は国書刊行会より「1945:もうひとつのフランス」シリーズの第7巻として昭和62年に出版された。

物語はプロローグ、第一部「陰謀」、第二部「混乱」の三つに分かれている。プロローグは三人称視点で書かれているが、以降は主人公視点で話が進められる。

この作品は主人公フランソワ・サンデールが女優マルレーヌ・ディトリヒの写真をオカズに自慰行為を行う場面で幕が開く。訳者の田代葆は「いきなりマスターベーションのシーンからはじめる小説というのは他に知らない」「意表をつく出だしである」と解説に感想を述べている。確かに卑猥な描写から始まるのには驚かされるが、この自慰行為の描写が非常に魅力的かつ、また作品の雰囲気をよく表わす重要なシーンであろうと思われる。

物語は、一人の少年、その男の子の感情そのものを示すような、まじりけのない金髪をしたその少年から始まる。マルレーヌ・ディトリヒの顔写真が精液にまみれて、彼の目の前に拡げられている。大きく拡げられている雑誌の上には、その女優の両脚に沿って、まるで軽騎兵のかぶる帽子についている銀色のハンガリー風刺繍みたいに、乳白色の光沢を放つ幾筋もの流れが交叉している。(…)マルレーヌ・ディトリヒの顔は、とがむべき茫然自失にとっぷりとつかって、絨毯の上で反り返っている。彼は、雑誌を拾いあげ、紙屑かごの中で破り棄てる。
『ぼくの剣』(国書刊行会)10頁

この作品に貫かれている雰囲気は、射精後に襲ってくるあの独特の倦怠感であろう。先に言ってしまうと、このような雰囲気が打破された瞬間こそ、この作品のクライマックスなのである。

サンデールは自慰行為の記録を律儀にノートに記入し、自身で犯した雑誌を棄てた屑入れに、祖父母からの手紙や結婚式の招待状をはさみで裁断した上で棄ててしまう。冒頭から主人公の無気力さ、無関心な性格が伝わっている。記録ノートの日付から、このプロローグの場面が1937年3月22日であることがここで読者にはわかる。

マルレーヌ・ディトリヒ

サンデールは自慰行為を記録しているものとは別のノートを取り出す。そして「一五分後に、ぼくは自殺するだろう」とそれに綴る。その後に父親への反発心、決して下らぬ理由で自殺をするわけではないということ(しかし理由は明言されていない)、姉クロードに対する愛憎半ばする思いの丈をぶちまける。彼女がフィアンセであるベルナールと仲睦まじく過ごしていることに彼は腹を立てている。サンデールは狂気的な近親愛を抱いており、クロードへの想いとベルナールへの嫉妬は並のものではない。

今どきの若い女の子たちには慎みなんてものはこれっぽちもありゃしない。だが今は、そういう若い女の子たちに向かって、唇に口紅をつけられてその顔を小汚らしくしているベルナール・ティソに向かって、彼女の畏怖ているサンデール大佐に向かって、あばよ、と言ってやる瞬間だ。
前掲、13頁

自分が自殺するのは決して出来が悪いからでも(彼はこの時、パリのリセ第3学級の優等生であることを自分で書いている)、また何か悲しい出来事があったわけでもない、もっと深いわけがあり、それをどうか察してくれという旨をサンデールはノートに綴っているが、状況的にベルナールへの嫉妬と、節操もなくフィアンセとイチャつくクロードへの怒りから自殺に走ろうとしているということがうかがえる。

結局、拳銃で自殺しようとしていたところを姉に見つかり未遂に終わる。姉は優しく彼を慰める。彼女が作ってくれたショコラを飲み、幾分か落ち着いたのだろう、サンデールが自殺を試みたのはこれっきりである。

隷属的自我

サンデールの姉への所有欲はすさまじく、クロードがフィアンセとベタつき内緒で彼を家に呼んでいることを不快に思っていた彼は、憎んでいるはずの父親に「父上、あなたのお嬢様はあなたを裏切っています」という文言で始まる手紙を宛てて、ベルナールとの密会を全てバラしてしまう。娘が自分に内緒で男と会っているのを知った父親・サンデール大佐は激怒し、クロードとベルナールを引き離すべく、娘をパリから離れた親戚のところに送ってしまう。一時的に姉と別れるはめになったが、結果的には二人を別れさせることに成功した。その後、父親は軍務のために再び家を離れ、ベルナールは高射砲部隊に入隊して、戦争が勃発するとフランスを離れる。父親とベルナールがいなくなり、サンデールは姉を独り占めすることができた。彼は常にクロードの「裏切り」に注意し、それが発覚した時には「復讐」をしっかりと果たせるように意識している。

サンデールの自己中心的な愛情には辟易させられるが、しかし単純にサンデールがクロードを支配していると理解するわけにはいかない。

少年時代、彼はよくギリシャ戦士に扮してごっこ遊びをしていたのだが、その時、遊び相手である姉を「ブリゼイス」と、そして姉はサンデールのことを「アシル」と呼び合う習わしがあった。冬になると二人は一枚の毛布にくるまり、そこでクロードは「わたしはあなた様のか弱い奴隷でございます、わたしはあなた様のか弱い奴隷でございます。」と繰り返したそうである。それに気を良くしたサンデールは「ご主人様」として彼女を「最大限の軽蔑をもってあしらう」ようになったのである。

クロードはひねくれ者の弟を弄んでいるように感じる箇所が多くある。サンデールの姉への執着心は気の毒に思える程病的であるが、ここで思い出されるのはヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」であろう。主人は奴隷を支配しているのではなく、奴隷に依存しているのである。クロードが「あなた様のか弱い奴隷でございます」と言い、サンデールが「ご主人様」を気取るとき、二人は言葉とは真逆の転倒した関係にある。サンデールの狂気はこの事実に気づけないところから由来するのだろうと思う。

第二次世界大戦前のクロードとの思い出が一通り回想された後、唐突にサンデールがとあるユダヤ人を撃ち殺す場面へと切り替わる。読者には何のために撃ち殺したのか判然としないまま話は進む。目撃者たちに取り押さえられた彼は暴行を加えられ、納屋に閉じ込められてしまう。そこから新たな回想が、「1942年10月のあの日」から始まる「奇妙な日々」が描かれていく。

サンデールはルイジアーヌという女性に誘われ、レジスタンス運動に参加するようになる。しかしそれは反ファシズム、共和主義、そして祖国を想う感情に由来するものではない。ルイジアーヌはそんな彼を不思議に思い、サンデールがある危険な作戦に自ら志願した時にしつこくその理由を問いただした。「自分にも何が何だか分かっちゃいない」「決定した以上、ぼくはそのゲームを完璧なまでにこなすまでのことだろう。無関心に。退屈しながら。」とサンデールは答えた。レジスタンス連中の愛国心には「恥辱で死ぬかもしれない」と嫌悪感を抱き、他の連中のように真面目に運動に参加したわけではなかった。

彼は「ゲーム」を完遂する為に、ヴェルサイユにある親独義勇隊(『剣』の邦訳では「親独義勇隊」となっているが、他の書籍ではよく「民兵団」と訳されている「ミリス」のこと)の兵営に向かう。彼の使命はユダヤ人とレジスタンスの弾圧に血筋をあげるジョゼフ・ダルナンの暗殺であった。ダルナンは個人的にヒトラーに忠誠を誓うほどの熱心な対独協力者であり、また親独義勇隊の指導者だった人物である。サンデールは彼を暗殺する為に親独義勇隊への入隊を試みたのだ。


ジョゼフ・ダルナン(1897年-1945年)

入隊を果たし、ついに彼の所属する兵営にダルナンがやってくる日が来た。彼はダルナンがいる部屋に向かう。しかし作戦は事前にバレていたのか、サンデールは直ぐに取り押さえられてしまう。他に暗殺のために部隊に潜入していたレジスタンスの少年も捕まっていた。警官が別の場所で捕らえたルイジアーヌを伴って兵営に来、そこから取り調べが始まった。だがサンデールは幸運なことに、隠し持っていたと思っていた武器が出てこなかった。さらにルイジアーヌが機転を利かせ、なんと彼だけは無罪となった。

ルイジアーヌともう一人捕まったレジスタンスの少年の処刑を見届けたサンデールは、そのまま義勇隊に残った。素行の悪い義勇隊員――彼らは上官やダルナン、ペタンを裏で小馬鹿にしていた――と意気投合し、義勇隊に「本来の居場所」と見つけたと彼は思った。

義勇隊に残り、淡々と任務をこなす日々を送ったが、彼のなかであらゆる外部に対する軽蔑心と無関心さはなくなることがなかった。彼はファシストになったわけではなかった。そして彼のなかで、否応でも自分は一体何なんだという疑問がわいてくる。自ら積極的な動機で選択したことは何一つないのだ。

ぼくは、自分がたんなる一親独義勇隊員なのか、それとも義勇隊員になりすました一対独抵抗者なのか自問してみた。でなければさらに、マリン・ブルーの制服を着て対独抵抗運動者を演じる一ファシストなのか、と。ぼくはその最後の仮定から踏み出しはしなかった。それ以上考えを進めると、いわゆる大いなる精神的疲労というやつに襲われるから。
前掲、70頁

レジスタンス連中にも、対独協力者、ファシストにも最終的には興ざめしてしまう。時代の激動のなかで自分を見失いそうになる、常に自分は周りに流されてきたことが突きつけられるのだ。

主人公サンデールは二つのものに、姉クロードと歴史の激流に隷属してしまっているのだ。それは彼の持つ何も信じることが出来ない不信感と、白けた態度に由来する。彼がこのような「隷属的自我」から自分を取り戻す瞬間、作品を貫く倦怠感は癒やされるのだ。その瞬間とは、サンデールが独自の決断主義者として立った時である。

6月のにわかレジスタンスども

休暇で二人の義勇隊員を引き連れてサンデールは列車に乗っていた。突然、外から爆発音が聞こえ、列車が急停止した。レジスタンスによる急襲である。それをいち早く察知したサンデールと一人の義勇隊員は銃を携えて客室から飛び出した。トイレに二人で閉じこもった時、もう一人の隊員が連れ出されているのが見えた。結局、連れ出された隊員は無残に殺されてしまう。

レジスタンスが去った後に客室に戻った時、何があったのか他の乗客に質問した。「クソ野郎一味の一人」が乗客たちを銃で脅し、義勇隊員の居場所を問いただしたのだ。しかし乗客の誰一人としてその要求に応える者はいなかった。結果、逃げ遅れた一人だけが殺されるはめになったのだ。だが乗客はサンデールたちを庇ったわけではない。

彼ら(乗客)がしてくれたさきほどの話は、我々の残る旅を台無しにした。ぼくには、それらの勇敢な人々が親独義勇隊を毛嫌いしていること、にもかかわらず彼らはそれよりももっともっと流血のほうを忌み嫌っていること、がよく分かった。そういう、あたりの柔らかい憎悪というものは手厳しい、そいつはいかなる不名誉もひき起こさないから。
前掲、75頁

裏切り者には相応の嫌悪を感じつつ、しかし引き渡した後の流血に対する忌避感が強かった乗客は、常に面倒事を避けて自己保身のために情況適応を専らとする大衆を象徴している。

フランス解放が迫っていた。上官は「サンデール君よ、一巻の終わりってわけだな?」と口にし、多くのフランス人が色めき立ち始めた。そこで出現したのが「6月のにわかレジスタンスども」である。そのような連中と、自分たちの勝利を正当なものとするためににわか連中を「両腕をひろげて迎え」る活動家たちを、サンデールは軽蔑した。「一丸となって、あの国民どもが勝利にむかって逆流する」のを彼は感じ取っていた。しかし本当の「勝利」がもたらされるのだろうか。このような節操のない、無反省な国民の根性こそ、40年に敗戦をもたらしたものではなかったのではなかったのか。

サンデールは国中が浮き立った状況のなかでとある同志の言葉を思い出した。

<臆病者たちがはばをきかせているんだよ。僕たちが、僕たちの敵同様に、フランスのためになんでもするのだよ。親独義勇隊員か、でなければ対独抵抗員であるしかないのだよ。それ以外の連中は、妥協して、裏切って、生きのびるんだ>
前掲、p76頁

しかしサンデールは「そういういろんな種類のヒロイックな考えに的外れに長々とかかわずらっていたわけ」ではない。つまり単に「親独義勇隊員」か「対独抵抗員」かという二項対立も、彼のなかでは意味のあることではなかった。何かの立場に立ち、意匠を信じることも、本当の自我確立ではないのだ。

憎悪の決断主義

サンデールはパリで親独義勇隊員として任務をこなしていたが、8月23日遂に義勇隊の上官よりストラスブールへ退去することが告げられる。ほとんど全員が「戦い続けたい」と口にして上官と一緒に出発してしまった。しかしサンデールの選択は違った。

――畜生め、ぼくは残るぞ。(原注:これは理想をもたぬある一つの魂の言葉)
その瞬間、ぼくは歴史を手に入れる、なぜならば、ぼくは即座に返辞をしなかったから。
前掲、81頁

「理想をもたない魂の言葉」とは、イデオロギーなき自我から発せられた偽りのない言葉である。今までの自分とは異なり、周りに何となくついて行くわけではない、自分の選択ができたのだ。「自分の歴史を手に入れる」(原文:大文字)も、無関係に進む歴史の激流に流されない独自の歴史を歩み始めたことを表わしている。

対独協力者たちと心中するのは御免、かといって「勝利」が近づき都合良く振る舞う連中も唾棄すべき存在というわけだ。

解放後に対独協力の廉で頭を刈られた女性たち

解放目前、占領下でミリスの制服に身を包み、我が物顔で街を闊歩していたことが祟り、街の人間からリンチされかける。あわてて逃げ果せた先はかつて勤務していた義勇隊の屋敷だった。そこで一息ついた後、外で「勝利」に喜び浸るユダヤ人が目についた。そのユダヤ人はサンデールを大いに苛立たせ、そして彼はそいつを撃ち殺すことにした。この決意は唐突なものではない。

ぼくはルガー銃の木製の可動床尾の標準をぴたりと合わせた。もしもいろいろな思いつきを自分に許すのにそれらの歴史的な日々を利用しないなら、いったいいつそういうチャンスがおとずれるというのか?
前掲、88頁

ここで戦中の回想が始まる前の、ユダヤ人を射殺した場面に戻って来る。そこの箇所に戻って彼の行為の真相に迫りたい。

納得のゆく様々な領域中に自分の生活を置くために、銃の引き金を引く瞬間瞬間を活用すべきなのだ。もしもぼくが偶然にまかせて、その坊やを撃ったならば、そいつは真面目なこととはいえない。そして、だからこそ、ぼくはそういうことには賛成しない、つまり辻褄の合わぬことは瞬間的にとてもおもしろい、というようなことに。そしてぼくは二年経って知った、そういうことには愚にもつかぬことなのだ、ということを。
前掲、37頁

二年の間、周りに流されて瞬間的に自分の歩む道を選んできた。しかしそれが結局は意味の無いことであると気が付いたのだ。彼は己の「直感」によって――単なる機会的なものではない――他者から見れば無意味な行為を行い、レジスタンスや対独協力者、そして大勢の偽善的な大衆による軽蔑すべき「喜劇」から解き放たれるのだ。

ユダヤ人を撃ち殺すこの場面ではニミエ独特の決断主義が開示されている。思想史上、様々な思想家たちが独自の決断主義を打ち立ててきたが、それぞれの決断主義において差異を見つけるには、決断の基準のようなものに注目するのがわかりやすいだろう。例えばユンガーにおいては「果断さ」が、シュミットにおいては「真剣さ」が決断の基準となる。

『ぼくの剣』において現れる決断主義は「憎悪」を基準にしている。全く信用ならないあらゆる党派・思想、大衆、これから始まろうとする偽善的な戦後体制、そして何よりも今まで無気力に流されてきた自分に対する「憎悪」が絶頂に達した時、無気力と倦怠感が打破される、そして「新生フランスの第一の象徴」である欣喜雀躍するユダヤ人に向かって銃弾が発せられる。他に決断を左右するものは何一つない、ただ純粋に自己の内外にむけられた「憎悪」による決断、それこそが「憎悪の決断主義」なのだ。その決断後、隷属的自我を脱し、真の自我が確立される。この決断こそ「ぼくの剣」を振り下ろすことなのだ。

隷属の打破

この作品は決して整った時系列と因果関係に沿って物語を進めているわけではない。客観的な歴史と主人公の「自分の歴史」が入り交じり、個人的にはかなり読みづらかった。それはやはりニミエの意図が、客観的な時間に縛られない自我を描きたかったからであろう。

大方の者たちは自分たちの記憶を甘やかで、使いものにならないものにしてしまう。ぼくの手にかかれば、そいつは変わるだろう。ぼくはもはやそういう歴史がありとあらゆる方向にてんでに走り出すままにはしないだろう。これからは、熱心に、頭を使って、可能ならば、ぼくは思い出すだろう。
前掲、143頁

物語はユダヤ人殺害では終わらない。最後の場面では――一体どのようにユダヤ人殺害の咎を逃れたか不明だが――姉クロードとの再会が描かれる。再会前にパリで彼女と親しくしていた男と知り合い、彼女が彼と情事を交わしたことを知る。再び彼のなかで「裏切り」に対する「復讐」を、しかも今回は徹底したものを行おうと決意する。作品は、最後に姉殺しを匂わせる描写で幕を閉じるのだ。息が詰まりそうな怒りのなか、自分を裏切ったクロードを彼は殺してしまったのだ。ここでも再び「憎悪」の決断が下される。ユダヤ人射殺以上に重大な決断が行われている。あらゆる意匠にも、そして姉にもにも欺かれることを拒否するサンデールが最期に姿を見せるのだ。

作品冒頭の引用文を最後に見てみたいと思う。全てがここに詰まっている。

とりわけ、あなたは、あなた自身に嘘をついてはならない。己れに嘘をつく者は、己れと、他の人々に対する尊敬の念を失ってしまうから。嘘をつく者は、まず最初に傷つけられる者。でも、たまには、他の人々から傷つけられることに悦びを覚えないだおろうか?……そのことに、大いなる満足をおぼえるまでに。まさにこのことを通じて、人は、真の憎悪に到達するのだ。
D.

最後に

ニミエはドリュ・ラ・ロシェルに共感を示していた。また終戦直後、投獄されていたシャルル・モーラスに面会するために監獄を訪れていた。戦後に葬り去られようとされた二人と、戦後的なものを嫌悪したニミエの距離はそう遠くはない。彼がドリュとモーラスに見いだしたのは、何があろうとも己の信条を貫き通した誠実さであろう。

ドリュ・ラ・ロシェルとシャルル・モーラス

しかしニミエはファシストにも王党派にもならなかった。モーラスが生きた時代は廃墟の予感が、そしてドリュの時代は実際に音を立てて何もかもが廃墟と化す過渡期であった。モーラスは王党派という復古的立場(廃墟前への憧憬)に立ち、ドリュはファシストという革新的立場(廃墟での建設)に立ったが、すでに廃墟が目の前に広がっていたニミエにとって、何一つ信じるに値しなかった。彼には虚脱感と、戦中戦後を通して廃墟の中で「喜劇」を繰り広げる大人に対する軽蔑心と憎悪のみがある。『剣』においてはその憎悪によって、無気力さと倦怠感は打破され、決断へと至っている。

我々は現代の廃墟において、己の剣を振り下ろすことができるだろうか。

「無用者」は我々に問うている。






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