[書評]ユリウス・エヴォラ『大日本帝国思想の精神的基盤』
ユリウス・エヴォラ(1898年ー1974年)は、今なお欧米の新右翼やオルタナ右翼に多大な影響を与えているイタリアの思想家である。エヴォラの思想は反近代主義、反カトリック、反ユダヤ主義、神秘思想、伝統主義、ファシズムなどの要素が入り交じっており、ここで彼の思想をまとめるのは筆者の手に余る。今回はひとまずエヴォラの思想の全体像については触れないでおこうと思う。
今回紹介するのは1940年11月から12月にかけて発表されたエッセイ「大日本帝国思想の精神的基盤」(Basi spirituali dell’idea imperiale nipponica)である。
日独伊防共協定が1939年11月に、そして日独伊三国同盟が1940年9月に締結された。エヴォラはこのような時局を踏まえ、今後同盟国として共に進んでゆくであろう極東の島国の思想を、広く人々に教示しようとしたのである。
まずエヴォラは、同盟締結は日独伊三国の共通した「政治的利益」を内外に対して強調する機会となったこと、一方で政治的観点とは異なった「世界観」「精神」「伝統的原理」のような観念的観点からの同盟締結の意義に関する議論がないことを指摘する。そもそも西洋の人々にとって日本は全くの別世界であるから、精神的価値についての議論は無意味であると考えられていた。しかしエヴォラは西洋人に共有されたそのような前提に異を唱える。
エヴォラは極めて優れた意味での「伝統的」文化が存在するところには「潜在的に普遍的な何か」が常にあり、普遍的なものは文化という多様な要素のなかで己を表現していると主張する。エヴォラによると日本は「最も伝統的な文化が残っている国の一つ」である。もし西洋と日本との間に隔たりがあると感じた場合、それは西洋の側に普遍的なもの、つまり優れた「伝統的」文化の欠如に由来する。
エヴォラは日本について以下の認識が重要であると説く。
日本に関する以上の認識に基づき、エヴォラは西洋の人々が表面にしか知らない日本の思想に触れることは大変有益であると考える。彼はここから国体の解説を行い、そしてローマやゲルマンの精神と日本精神の間に共通する価値観を探ろうとする。
まずエヴォラは「まつりごと」という言葉に注目し、この言葉には厳密な意味での政府(時間的権力)と「宗教的な行事」の二つの意味が内包されており、皇室が二千年以上の連続性を持った日本では支配権力と宗教教団が一体となっていることを指摘する。この支配権力と宗教の一体性、または曖昧さは日本に限ったことではないという。この曖昧さは「ローマを含む全ての原初的伝統文化に属する、一人の人間の中にある精神的権威と時間的権力の断ち切れない統合」であるとエヴォラは主張する。しかしこの統合はエヴォラによると、西洋では失われ、現代世界においてそれを保持しているのは日本だけであるという。
ここで言う宗教とは神道に他ならない。その神道の基礎をエヴォラは「忠義」に求めている。個人と集団生活のあらゆる美徳と行為は、この「忠義」が基準である。日本におけるこの忠誠の概念は、武士階級の領域だけでなく、両親への尊敬、親友や友人間の連帯、徳の実践、法律の尊重、適切な男女の上下関係、産業・経済分野における生産性、仕事、学問、人格形成、血と人種の防衛といった幅広い領域に関係するものである。もちろん重要なのは天皇(君主)や神々に対する忠誠である。つまり生活におけるあらゆる行為は超越的忠誠という観点によって正当化される。この観点に基づくと、人々は法律といった抽象的規範ではなく、「忠義」を守っているかどうかで判断される。「忠義」に背いたものは、「犯罪者」というよりも不忠実な者「裏切者」とされ、名誉を守ることができない存在とされる。
このような思想は東西問わずあらゆる伝統的文化が持っていたものである。エヴォラは日本の「忠義」を、西洋における信義の女神「fides」と関連させている。西洋では「忠義」の徳とそれに伴う名誉はすでに失われたが、エヴォラによるとファシズム運動と国家社会主義運動において再び姿を現しつつあるという。
しかしファシズム・国家社会主義運動における指導者に対する忠誠と、日本の天皇に対する忠誠を同列に扱うことは無理がある。例えば日本の思想家、蓑田胸喜はファシズムとナチズムは結局は君主制の憧憬に過ぎないと喝破した。ムッソリーニやヒトラーの独裁体制と、二千年以上もの連綿とした歴史を紡ぐ皇室を中心とした日本の国体は、やはり大いに異なるのである。そしてエヴォラもそのことを認識している。
エヴォラはここから三種の神器の解説を行い、神器が示す主権の超越性が神話の世界だけでなく、今日の大日本帝国の思想の基礎であることを指摘する。天皇への忠誠は国家の公式イデオロギーであり、国民感情、日本人の理想・美徳の礎なのだ。そしてこの思想が日本人の「物質主義、個人主義、集団主義、(中略)ボルシェビズムと戦うために用いられる武器」である。
エヴォラによれば、現代世界において唯一、以上のような超越的存在に対する忠誠を中心とした思想を持つ日本民族は、自らを「神の力の担い手」として、物質的なものとは無縁の普遍的な使命を持った民族という自覚を持つようになる。本文では松岡洋右の以下の言葉が引用されている。
エヴォラはこのような超国家的使命を持っているのは今日では日本民族のみであるが、本来は決して日本固有のものではないという。
「伝統的」文化や超越的存在への忠誠を保持し続ける民族には、普遍的なもの(形而上的なもの)が常に存在しており、たとえ人種的要素や地理的要素が異なっていようとも、共通の力を見出すことができる。
最後に、エヴォラは頽廃した現代世界に対する世界に反抗するために、西洋における過去の偉大な精神的価値の復興と、高次の精神的価値を保持し続ける日本との共闘を訴える。
今なおアクチュアルな力を持つ思想家の日本観をうかがうことで、我々が当たり前の存在だと思っている日本の伝統文化、精神的価値、天皇・皇室に対して新しい見方を得ることができたのではないだろうか。
しかしエヴォラの日本の国体理解、宗教理解は正確さを欠く面も多くある。大昔から一貫して日本は理想を守っていると彼は考えているが、開国以来、西洋諸国と同じように近代文明の宿痾に苦しみ続けているのも大日本帝国の一面である。むしろ御一新の名のもとで破壊された伝統も多くある。エヴォラの分析をそのまま受け入れることはできない。日本人として批判・反論すべき点もある。
だが、優れた精神を保持する民族間には共通してある種の超国家的理念や普遍的なものが存在しているというエヴォラの考え方は、排他的で偏狭なナショナリズムを超えた興味深い思想であろう。
エヴォラが憧れた大日本帝国はもう存在しない。我々には誇るべき精神的価値も、民族的使命もない。彼の言葉を借りれば「復古的な革命」が今こそ必要なのかもしれない。
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