サミング・アップ!

サマセット・モームのサミング・アップを読んでどうしても書かなければいけない気がしたので、書いていく。これは感想だとか紹介だとか、ましてや書評などでは決して無い。ただの自語りに過ぎない駄文だが、往々にして文章を書くことをライフワークとする人間には、どうしてもかいださなければならない言葉があるのだろうと思う。
さて、ほんの紹介はゆる言語学ラジオの堀本さんよりもうまくできる自身がまったくないので、各自googleで検索して貰って、オイラの文を読みたい人だけが続きを読むと言い。
 本当に2作目というのは駄作になるものなのかもしれないな、僕が今書き進めている話、本当は2つの話を分量を増すためだけにくっつけたものだ。幸い発想力の貧困と、アイデアの貧乏性のお陰で主人公が同一人物、ただし別の時間軸出会ったため流用することと、最低限のまとまりのようなものを維持できると考えているが、そんな横紙破りな書き方を恥ずかしいし、どうせ良いものにもあらない気がする。どこの賞に出したって箸にも棒にもかからないだろう。それでも、いまだ懲りずに執筆をつづけている訳をここに書き出したいと思う。
 それはまだ高校生の時だった。受験が終わりなんとなくのんびりしているころ、最高の小説に出会った。それに触発されて、夏以降封印していた執筆を再開した。筋書きはこうだ、ある並行世界のようなものから来たお姉さんにたぶらかされた主人公が、そのおぞましい世界に飲まれそうになるが、彼の友人にして、相棒の少女によって目を覚ます。これだけのことを長ったらしく書いているものだ。さて、このアイデアはいくつかのもの、小説に限らず音楽からもインスパイアを受けた。そして、それなりにイカシタアイデアだとうぬぼれていたが、それが全く独創性がなく、凡庸なものだと思わされたのは、春に村上春樹の海辺のカフカを読んだときだ。全くとはいわないが、おおよそ考えていたことは同じだった。僕の矜作君の物語はカフカ君の家出とほぼ同じようなものだ。いや、劣化コピーである。仮にだ、表現したいことが同じだったとして、オイラの乏しい表現と、紋切り型な言い回しをどれだけ弄したら、あの大作家と張り合えるのだろうか? 一体全体無理だというものだろう。そして僕は筆を折った。だが、あまりにも記憶力が乏しいので、また別の本を読んで執筆を再開した。それは森見登美彦のペンギン・ハイウェイだった。これもめっちゃ面白かったので、再び策を練り始めた。当世風の音楽を聞いて思いついた、鏡写しの少女の話。パリティ対称性の破れだとか実存主義哲学だとか、聞きかじったものをそれっぽく組み上げた。それでも、あまりいいアイデアだとは思わない、少しばかりの気の利いた言葉を発明したが、それはストーリーの大枠における欠点を補うには至らない、自分以外は読み飛ばすようなものだ。そしてまた筆を折りかけたが、今度は、前に書いていた話をツギハギすることを思いついてしまった。千一夜物語的なのを書けば分量の問題は解決できるなどと息巻いてしまった。ただ根本的な文章や作劇の問題を全く無視しているため、また筆を投げる。
 さて、ここまで読んでくれた人がいるならば、オイラのことをただ忍耐力がない気分屋だと思うかもしれない、ただ残念なことに、それは当たっている。カタルシスがない結論だが、本当に何かをやり抜くという意識が希薄なことが、私の人生の失敗の本質なのだ。
さて、そうして無駄に月日を消化していくうちに、冒頭のサミングアップにであった。これは革命的だ。書けなくてもいいだと言う気持ちを与えてくれた、だけれども、どうやらオイラは芸術をやらずにはいられないのかもしれない。一度人間を創作の肥やしにしか見れなくなった人間が、真っ当に社会で生きて行けるのだろうか?
サミングアップでは創作するやつの凡庸性と異常性の記述に膝を打った。まあ、続きはそのうち

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