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つるのさびごえ


 八月一日。

 私は今日、十四になった。だから今日から日記をつけることにした。いつまで続くかわからないけど、せっかくの節目だから書いてみることにした。なるべく長く続けられたらいいな。
明日からお母さまから引き継いで、この城で唯一のお役目を仰せつかることになった。千歳姫さま。一体、どんなお方なのだろう。お母さまは詳しく話してくれたことがないし、お城の中でも千歳姫さまを見たことがある人はほとんどいない。そんなお方のお世話係だなんて、こういってはなんだけど、少し怖い。畏れ多い。だけど、楽しみなような気もする。不思議だ。お母さまが言うには、とてもきれいなお方らしい。緊張する。千歳姫さまは、私のことを気に入ってくれるだろうか。お母さまはやさしいし、落ち着いているし、大人だ。私はまだ子供だ。十四になったのだから子供ではないけども、十四になったからといって、今日からお前は大人だ、と言われても、私はどうしたらよいのだろう。昨日まで子供だったのに。お母さまやお父さまは、どうだったのだろう。すぐに大人になれたのだろうか。
 こんな弱音を吐いていてはいけないな。とにもかくにも、明日から私も奉公人となるわけだ。大人だ。私はどんな大人になるのだろう。


 八月二日。

 身体がくたくただ。緊張していたのだと思う。
 千歳姫さまにはお会いできなかった。お会いすることは出来たけど、お顔を見ることが出来なかった、という方が正しいか。千歳姫さまは暖簾の向こうにいて、お顔を見ることが出来なかった。挨拶をしても千歳姫さまは「そうか、よろしく」とだけしか声をかけてくださらなかった。千歳姫さまの声はしゃがれていて、なんだか怖かった。
お母さまが言うには、千歳姫さまは人見知りをする質なのだそうだけど、果たして本当にそれだけだろうか。もしかしたら、千歳姫さまは、私のことが気に入らないのではないか。つい昨日十四になったばかりの小娘に、自分の世話など務まるわけがないと思っているのではないだろうか。一週間はお母さまと一緒にお世話させていただくから良いかもしれないけれど、お母さまがいなくなってしまったらどうしたら良いのだろう。
 しかし、これは私に与えられた役目なのだ。千歳姫さまのお世話を任せていただけるなんて、名誉なことだ。お母さまからしっかりと引き継いで、姫さまにとって最高のお世話係になれるよう、精進せねば。


 八月六日。

 早速間が空いてしまった。三日も続けることが出来ないなんて、私はとんだ根性なしだ。しかし、本当に忙しい。
 来週からはお母さまはいない。私一人で千歳姫さまの世話係を務めなければならない。正直、とても不安だ。千歳姫さまに話しかけられるといまだに緊張してしまう。相手は姫さまなのだから当然だと思う。けど、なんだろう。あの低いしゃがれ声が私を余計に緊張させる。
それに、千歳姫さまは何か、こういう物言いは良くないとわかっているけど、妙だ。第一にあの声があるが、それだけじゃない。姫さまは穀物と野菜しか食べない。魚も食べるけど、焼いたものは食べない。それに、卵料理を食べないのだ。お姫様なのだから、上等なものを食べると思いきや、卵は絶対に食べない。私なんて食べたくても食べられないのに。この一週間で一度もお顔を見ていないのも不思議だ。外に出ている気配もない。謎が多いお方だ。
 千歳姫さまと打ち解けて友人のようになりたいとまでは思っていないし、そんなこと、私の身分では思うわけもないのだけれど、今のままで私に世話役が務まるのか、ああ、不安だ。とても不安だ。来週から一人で、本当に大丈夫なのだろうか。


 八月十一日。

 また日が開いてしまった。今日も身体は疲れ切っていて、今すぐ床に就きたいが、きちんと書いておこうと思う。
 今日、初めて千歳姫さまが私に天気をお尋ねになった。今日は本当によく晴れていて、大きな入道雲と、濃く、深い青い空が見えた。いいお天気ですよ、とお返事したら、千歳姫さまは、お前にとってのいい天気とはどんな天気だ?と私に問うた。
 そんなこと、生まれてこの方考えたこともなかった。いい天気と言ったら晴れに決まっていると思っていた。「わかりません、今日は晴れです」と言い直したら、暖簾の向こうで千歳姫さまが笑ったような気がした。姫さまが笑ってくれたことが嬉しかった。
 こんな風に千歳姫さまとお話し出来るなんて思ってもみなかった。明日、姫さまにきちんとお答えしなければ。私にとってのいい天気は、やはり晴れの日だ。
 久しぶりに明日が来るのが楽しみだと思った。


 八月二十六日。

 千歳姫さまのお世話係になってから、もうすぐひと月が経つ。最初はどうなることかと思ったけど、ようやく姫さまに対して普通に受け答えが出来るようになってきた。最初はあの低いしゃがれ声で話しかけられると、不安な気持ちになって上手く返事が出来なかったけれど、今はあの声が不思議と落ち着くような気がする。慣れだろうか。近頃は姫さまが私と雑談をしたがることが増えた。きっと退屈していらっしゃるのだろう。
 しかし不思議だ。姫さまはどうしてあの部屋を出ないのだろう。部屋どころか、いまだに暖簾を開けたところも見ていない。私はいまだに千歳姫さまのお顔を見たことがない。次の一ヵ月で少しでも見ることが出来たら嬉しいけれど、私はただのお世話係だ。姫さまの友人ではない。そう、これが奉公、私は姫さまに仕えている身なのだ。私は大人なのだ。正しい関係であることが絶対なのだ。
 そういえば、夕飯前に立ち聞きしたあの話は本当なのだろうか。隣国が次に狙うのはこの城だという話。私はこの城、この国の慎ましやかで穏やかな暮らしが好きだ。戦になんてなってほしくないのだけれど。


 九月二日。

 ついに日記を書き始めてひと月が経った。ひと月でたったの五回しか書いていない。けど、これで良いのだ。
 今日、千歳姫さまにこっそり日記を書いている話をした。疲れ切ってしまってなかなか毎日書けないことも。姫さまは、日記は余裕があるときに書けば良いと私に教えてくださった。記録をするために書いているのではないのだから、記憶しておきたいことを書けばいい。言われてみればその通りだ。私は記録をしたいわけではない。私は、私が覚えておきたいこと、忘れたくないこと、残しておきたいことを書いておきたくて日記を書きはじめたのだ。姫さまは、書きたいと思ったことは書きたいと思ったその時に書いておかないと形を変えてしまう、とも申されていた。
 姫さまの言葉にはたまに驚かされる。色々なことに気付かされる。姫さまは不思議なお方だ。
 私は今日、姫さまのお言葉を忘れたくなくて、日記を書いている。


 九月十日。

 まさか姫さまから「想い人はいないのか?」と訊かれるとは思わなかった。余程暇を持て余していらっしゃったのだろう。しどろもどろになる私が面白かったのか、姫さまは控えめではあるけども声をあげて笑っていらした。恥ずかしかった。姫さまは私のことを生娘だと思っているのだろう。まあ、生娘に違いないけれど。今はそのような相手はおりませんと答えたら、それ以上深くは訊かないでくださった。どんな殿方が好みか、なんて話に発展したりしなくて本当に良かった。
私はいまでも平助兄さんが好きだし、きっとこれから先も好きなのだと思う。いつかどこかの誰かに嫁ぐ時もきっと思い出すだろう。平助兄さん、近頃会っていないけど、元気だろうか。今頃立派なお侍さんになるために日々精進しているに違いない。一緒に遊んでくれていた小さな頃からずっと、平助兄さんは真面目な人だったから。
 そう、この話をしている時、私はまた不思議なことに気付いてしまった。千歳姫さまは一体誰のお方様なのだろう。当代の殿様ではないし、先代でもない。先々代だとしたら、千歳姫さまは今おいくつなのだろう。
 卵や焼き魚を食べないのは、もしかしたらもう若くないからなのではないだろうか。私が物心ついた頃からお母さまは千歳姫さまのお世話係を務めていたし、もうそれなりに御歳を召していらっしゃるのかもしれない。一体、千歳姫さまはおいくつなのだろう。明日、お母さまに聞いてみよう。


 九月十二日。

 お母さまは何も教えてくれなかった。それどころか、厳しく、他の誰にもそんなことを聞くなと言われてしまった。どうしてあんな物言いをするのだろう。私はただ、姫さまのことをもっとよく知りたかっただけなのに。姫さまに直接おうかがいするより余程良いと思うのだけど。お仕えするからには、その相手のことを少しでも多く知りたいと思うものではないのだろうか。私はそんなに出過ぎた真似をしているだろうか。私がお仕えしている方は、何者なのだろう。


 九月十三日。

 昼間、千歳姫さまに、何かあったのかと訊かれてしまった。咄嗟に返す言葉が見つからなくて、体調が優れないと答えたら心配されてしまった。姫さまに心配されてしまうなんて、お世話係としてなんとも未熟だし、無様だ。自分が恥ずかしくてたまらない。
 お顔を見ることすら出来ていなくても、謎が多くても、私がお仕えしてきた中で感じた千歳姫さまのお人柄が私にとっての千歳姫さまだ。今はそれだけで充分。私が感じたことが、私にとっての本当なのだから。明日からは心を入れ替えて、きっちりしよう。


 九月二十一日。

 平助兄さんに会った。姫さまのお食事の用意をしていた時、廊下で偶然。最後に会った時よりもまた少し背が伸びていた気がする。お顔はほっそりしたのに身体つきはがっしりして、すっかり男の人になっていた。
 つい最近、千歳姫さまとお話ししたときに思い出していたからか、久々に会ったはずなのに、あまり久々だとは感じなかった。お互いに忙しかったし、ご奉公の最中に無駄話は出来ないから、目が合っただけだったけれど、それでも「久しぶり、元気か?」って平助兄さんの声が聞こえたような気がした。だから私も目だけで「私は元気です。平助兄さん、お身体を大事にね」と返した。きっと伝わっていると思う。
 こんな私事を姫さまに話すなんて良くない事なのではと迷ったけど、千歳姫さまにこのことを話してみた。きっと良い暇つぶしになるだろうし、というのは言い訳だ。姫さまがこの話を聞いたら、なんと申されるだろうかと気になったのだ。
姫さまは敏い。私が平助兄さんのことを好いていることはすぐに言い当てられてしまった。私は大人しく白状した。ずっと想っているけど、相手はお侍さんだし、叶わぬ恋です、と。千歳姫さまは「いつでも思い出せるところにいるのなら、いつでも会いに行けるも同然だ。結ばれることがなくても、想い合うことは出来る。愛というのは様々よ」と申された。
 姫さまの声は、とてもやさしかった。

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