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囲碁 敵
 
 「オーイ、オーイ、和尚!今、お前さんとこへ寄ってきたのじゃが、何処をうろついていたんじゃ。」
 声の届く近距離になった頃、埃に赤茶けた相当年功のあるらしい時代遅れの洋服を着、 同様古代模様の帽子を阿彌陀に被り、下駄ばきの五十五六歳の男が、餘り確実ではないペダルの踏み方をして自転車を近づけながら暫らく呼ぶばったのである。
 「オー、誰かと思えば竹庵どのか、どうじゃ、先日の敵討ちは?
敵討呼ばわりは、片腹痛いぞ頭巾!今日はもう待った許さんど。」
「待ったじゃと・・・待ったと腹痛は竹庵の専門じゃないか。今日は強いから其の積りでかかってこい。」
 「何を小癪な、丸儲け奴。儂には薬という元がいるが頭巾は丸儲けじゃよ。今日はよい機嫌らしいがまるもうけがあったんじゃな。」
頭巾とは、和尚の禿頭に頭巾に必要を約してのことで、ある晩夏の午後、二人が一心に碁を打っていると、余程耄碌した大きな蠅が、ツルリと滑って背中へ入ったのを観戦者が哄笑したので、それから竹庵がつけた和尚のニックネームである。又竹庵どのは病人さえあれば腹痛じゃと云うので、これは和尚が付けたのだ。
「丸儲けなものか、葬式から四十九日の仕上げまで丸損じゃが これも前世からの約束ごとじゃからな。南無阿弥陀々々々々々。」
この和尚、仏様を忘れないで直ぐ口先へ出すところを見ると、案外に殊勝なところがあるらしい。二人はもう二十何年かの碁敵である。その間に、彼等は何十回、口喧嘩をやったか知れない。
「碁敵は憎さも憎し、又可愛い!」の譬えどうりに、二人会えば先ず口汚く、言論戦をやっている。
 もし彼等の言葉の鏑矢を、二人の中を知らない者が聞いていたら。双方が先祖代々から受継いだ、血管から爪先まで、本心の敵同士と思ったであろうし、又そんなに相手が憎いなら、何も中の悪いものが、碁を打たなくても良さそうにと思うであろう。
 ところが、双方は親兄弟にも勝る大の仲良しである。そして二人は、口は出放題に何でもズケズケ言うけれども、二人とも大の善人で、案外気が弱いのである。
 この阜医師は、とにかく医専を出た西洋医学を修めた人で、正に草根木皮の漢方医ではない。広畑村唯一の医者であった。お人好しのこの村の医者は往診に患家行って、「貧乏人は 薬代がいるから早う死ねよ・・・」なぞ、大きな鼻声で患者の枕元で放言する。もし彼が善人ということを知らない他方のものであったら、彼はその場で一つ二つ殴られるところであろが、この阜医師は、近村でも口の悪い老舗を売っているので、患者も家人も苦笑いをするばかりである。
 もし、善人のこの田舎医師は乱暴な彼の放言に反して、実に貧者に至っては親切で金のない者には値引きしてやるはもちろん、家庭の事情によっては無報酬と知りながら往診を親切に続けてやるのである。
自分や家族は年中を貧乏して、衣服類など粗末なものを平気で着ている。
小銭がいるようになったら、何年か前の思い出して貰ってくる。
請求する方も、しられる方も忘れてしまって、双方が不確実であるために、もう済みましたと言える心臓の持ち主であれば、それで事済もするのである。
 こんな訳であるから年中ピイピイで、受付も、看護婦も、薬局も、診察も独りでやる。この放言居士は、またなかなかの粗忽者であるから、洋服・下駄ばきの彼の迷スタイルは、勿論層々自分の女房や子供の下駄を履いて患家へ行き自分の履物を捜索するのに層々問題を起こすのであった。
 こんなことがあった。ある患家で診察を済まして彼は帰ろうとすると、子供 下駄より無いので、家人等は自家の腕白小僧がどこかへ履いていったものと恐縮して、大いに陳謝したのであったが居士の帰った後で調べてみると、子供は矢張り藁の草履をつけていたので大笑いとなったことがある。
 また彼が和尚と碁を打っている際、形勢甚だ宜しからざる時は、太い鼻にかかった太聲で「ワハハハハハ・・・・こりゃどうじゃ」と言って頭を掻くから 、そんな時に往診を求めたりする急患者は、とんだ目に会わされるから用心が肝要である。
 いつかも ある急患の求めがあったが、岡先生は甚だ形成が宜しくなかったこととて「直ぐに行く。」と云って依頼者を帰し、一時間ばかり経って、「とうとう死にました。」と云って使いの者が来た。
彼は、「死んだか。」「死んだか。」と言いながら相変わらず一石一石に力を入れながら夢中に、打ち終わって、結局三目の辛勝であった。
「済んだ済んだ。胸がスーッとしたわい。」
畜生、しまった。月夜ばかりじゃない。闇夜があるぞ。」
「ワッハッハハハ・・・・」
「ウフフ・・・・」
竹庵どのは石を片付けるのもそこそこにして、患家へ飛んで行ったときは、 もう死んだ後であったとは、彼は何と言う失敗をしたのだろう!(尤も此の患者は彼の腕では、もう助からぬ老衰の重患者ではあったが、)
 彼の親友の和尚とて、それに劣らぬ粗忽者であった。いつかも、葬式を1周忌の法要と間違えて簡単な輪袈裟を掛けて行ったため、出棺を1時間余り伸ばして、自転車で法衣を取りに走りだしたことがある。こんな調子なのでお経を読み違えられている葬家が多いことであろうし、死者こそ、極楽や地獄への通過証として、若し読経の代価を支払わなければならぬものとするならば、其等 の門戸で1時間ならぬ二生も三生もまたされている霊もあるであろうに!
 然しこんな善人の和尚を、地獄の閻魔大王も頭巾またやったなくらいに思って、少々間違っても善意に解釈してくれるに違いない。
 この暢気にして粗忽者の和尚は、他からのよ養子に来たので、小さいときは先住に就いてお経を習い、葬式や法要には小さな袈裟をかけて、恰も仔犬のようにコロコロと先住に従いて歩いたものであるが、先住が死んでからは善明寺の後を継いで、1人娘の敬子と夫婦となったのである。
 若い時分は実によく働いた。住職でありながら小学校の代用教員を勤めていたので、葬式の都合上、朝学校へ行く時に教科書や試験用紙などと共に、法衣や経文などを風呂敷に包んで持って行ったし、又遠方の葬式など引き受けた日には、生徒は二時間ぐらい自習の厄に会うのである。それからあらぬか、和尚さんの月給は月九円であったが、さて和尚は自転車に慌しく荷物を縛り付けて 葬家の方へ駆けつけ続本の朗読よりも少しは丁重に謹厳に読経やらお見送りをしまして、反転して急ぎ寺へ帰っては薄暗いランプの下で、家族と夕食の後、 試験の答案に点を付けるのであった。
 尚ほ夜中に赤ちゃんが泣き出すと襁褓を替えてやるし、病身である上に家付娘の気儘から無精な女房に小言も言わずに、和尚は層々夜中でも手燭を持って子供達の便所の伴を仰せ付けかけられるのであった。
「よしよし泣かずにねんねしな・・・・」
 牛乳を温めて飲ましてやって寝かすのである。
 律義者で働き手の和尚は、先駆者として次々と生産拡充のため病身の妻に生ませたのであったが、その代わりによく子供達の世話もするのであった。
長男が1年生へ行きかけた時分などは、赤ん坊の襁褓を替えたり、自分と長男の弁当を詰めたり、帰れば広い寺の掃除から庫裏の傍らの空き地に野菜を植える世話から、大きな柿の木を中心として鶏舎を作って、自分たちの弁当の使用に鶏を十羽ばかりも飼ったりした。
 つまり和尚は、1ケ寺の住職であり、学校にては先生であり、家庭にては夫であり、善良なる下女であり、寺男ですらあったのである。
 名優は1人三役の変化をすると威張るが、彼は一人七役の変化をするのである。
 この和尚は長男が京都の仏教学校から帰って住職となり、自分は病妻に先立たれてから、下二人の女の子を他家へ縁付けしたりしたので安心したのか、五二歳で大病をやったのだが、それから、急に人間が変わったように呑気になってしまったのである。流石に坊さんだから 盛者必滅・会者定離とこの世を悟ったのか、それとも、最早や力を出し切ってしまったのかもしれない。
 今、長男は応召して南支方面に行っているため、代理がないのにも拘らず、檀家などへも勤めは必ずしも謹直とまではいかず、寧ろ不精にも逃げたがる と思わす程である。
「法事かよしよし。」
 暫らくは承知しておきながらまた軽く忘れてしまうのである。
「皆、待っておってだっせー。早う来とくなはれ。」
「おお。そうだったな。よし直ぐ行く。」
 暫らくして駆付けるが、話好きの和尚は、お経を読む時間より雑談の方が何倍か長いのである。
 歳が寄ったので不精ばかりかと思うと、そうでもないと思うのは、好きな碁と村の青年団のことでは、良い相談相手ともなり、その奨励者でもあるこだ。
 例えば田には黄金色の稲が豊かに約束されて、秋の収穫にかかる前の暑くもなし寒くもない秋日和のニ三日、青年達男女一年の楽しみである祭り屋台が出るのであるが、一時地方警察の方針として屋台などは野蛮な風習として禁止されたことがあった。
 和尚は大いに憤慨したのである。青年男女が農村に落ち着かずして兎に角出て行きたがり、遂に都会の浮華な悪風習に染み、純朴な農村を蝕むのは、農村に何等の楽しみが無いからである。日本の国は、農が根本である。農業を下等として卑下さし、是を衰退せしめるとき、有史以来二千六百年の国体の精華は色褪せ、国是が浮足となる。日本には日本の伝統的な尊い生活態度があり、これを尊重することによって、欧米者流の利己心から解放して、親和協同させるのである。
 農村青年の汗と土との真剣な親和こそ国家永遠の基礎である。都会の商業文明は人間の心を汚し、真の文明を錯誤に陥れたのである。
  なかなか隅に置けない和尚は、阿弥陀の光を、この頭に反射させてこれに物を言わせ、いきな計らいをすることもこの通りである。子供の手を引いてどちらから眺めていた。
スランス駐日大使ポール・クローゼル、友人長谷川善雄「播磨風土記」(現在篇)より 
 
この竹庵という医師は「皐はん」といって代々医業の家。頭巾とは、悟真院先々代の住職?「大塚」で、従兄弟となるのである。柳田國男翁のいう伊勢山。

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