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前方後円墳の考察⑨「道教とは」

卑弥呼の鬼道は道教だった、とする考えがあります。ここではまず道教について整理をしておきます。

道教の源流は、春秋戦国時代の諸子百家の一つである老子・荘子の思想(老荘思想)に求められます。老荘思想は道家の思想とも呼ばれ、「道(タオ)」は天地よりも先にあって、すべてのものを生み出す根源であり、人間の知恵を超えた、世界を支配する根本原理であると説きます。この老荘思想を中核として神仙思想、易、陰陽、五行、讖緯、占星、医学などを加え、仏教の組織や体裁にならってまとめられた不老長生を主な目的とする宗教が道教で、後漢末期に相次いで現われた「太平道」と「五斗米道」の2つの教団がその始まりとされます。

太平道は、山東省の干吉(かんきつ)が神人より授けられたと伝えられる「太平清領書」を教典とする教団組織で、後漢の霊帝(168~189)のときに河北省南部出身の張角が創始しました。張角は病人に対して自分の罪を悔い改めさせ、符水を飲ませ、呪術を行って治癒を行うという医術を用いて教説を流布し、わずか10余年で数十万人の信者を集めました。

大衆の心を掌握し、政治色を濃くしていった太平道は数十万の信者を軍事組織化していきます。そして甲子の年にあたる184年、教団による武装蜂起を図り、中国で初めての大規模な宗教反乱である黄巾の乱を起こしました。この乱は黄河中下流域を中心に急速に広がりましたが、組織力の弱い寄せ集め部隊であったこと、密告者が出たこと、張角が病死したことなどにより、その年のうちに主力部隊を失い、教団は急激に衰退することとなります。

のちに魏の王となる曹操は、主力部隊のひとつである潁川(えいせん)の黄巾賊を討伐した功によって済南国の相(行政長官)に任じられます。また、192年には最強の残党であった青州・徐州黄巾軍30万人を鎮圧しました。しかし結局のところ、この反乱は後漢の衰退を招き、魏・呉・蜀が鼎立する三国時代に移る一つの契機となりました。

ちなみに、この黄巾の乱と同じころ、倭国では大乱を終息させるために卑弥呼が女王に共立されています。

さて、もう一方の道教教団である五斗米道ですが、こちらは太平道に少し遅れて、江蘇省の張陵(張道陵)が「老子道徳経」を基本にして起こした道教教団で、教団名は信者に五斗の米を納めさせたことに由来します。張陵、張衡、張魯の3代にわたってこれを伝えたので後に「三張の法」と称されます。その教説は太平道と同様に病気治癒を重視して、自己の罪を告白、懺悔させるというものでした。

3代目の張魯が張陵を「天師」として崇めたことから、後に「天師道」と呼ばれることになりますが、この張魯のときに魏の曹操によって四川の根拠地を追われ、信者は中国の南北に散らばることになります。その後、張氏の統制を失くしてからは徐々に分散し、呪術化、迷信化の傾向に拍車をかけ、神仙説をも吸収していきます。そしてのちに「正一教」と名を変えて現在に至っています。

以上、道教の成立について確認しましたが、ふたつの教団のいずれもが病気治癒を布教活動の中心に据えていましたが、ほとんど医学の進んでいないこの時代にどれだけの病気治癒ができたのでしょうか。おそらく風邪や腹痛など、安静にしていれば自然に治癒する病気が大半だったのでしょう。数日間の呪術を施し、治癒すれば呪術のおかげで、治癒しなければ本人の行いが良くないからとして、呪術者には責任が及ばないようにして、実は自然治癒するケースがほとんどであったと思われます。それでも何もわからない民衆は呪術のおかげと考えて信者になっていったのでしょう。

さて、老荘思想を源流として始まった道教が神仙思想を取り込んだのはいつ頃のことでしょうか。島根県立大学「総合政策論叢第1号」に収録される陳仲奇氏の論文には、東晋の葛洪が著した「抱朴子・内篇」に至って道教理論として神仙説が確立された、とあります。葛洪が抱朴子を著したのは317年頃とされており、厳密にいえばそれまでは道教と神仙思想は全くの別物であったということになります。

(つづく)

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