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前方後円墳の考察①「前方後円墳って。」

この夏の課題として前方後円墳について考えてみました。すでにブログで公開している内容ですが、noteでも公開したいと思います。

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前方後円墳がどのようしてできたのか、なぜ鍵穴のような形になったのか、あの形には何か意味があるのか、、、、以前から何となく疑問を持っていたものの、あまり深く考えずにここまで来ました。このあたりで改めて自分の頭で考えてみようと思いました。

以下にWikipediaの「前方後円墳」の説明から一部を引用します。

古墳の形式の1つ。円形の主丘に方形の突出部が接続する形式で、双丘の鍵穴形をなす。主に日本列島で3世紀中頃から7世紀初頭頃(畿内大王墓は6世紀中頃まで)にかけて築造され、日本列島の代表的な古墳形式として知られる。
3世紀中ごろ、大和地方の纒向(現・奈良県桜井市)に巨大都市が出現し、最古の前方後円墳とされる箸墓古墳を築造する。これをもって古墳時代の始まりとする。その後日本各地に同じ形の墳墓が築造されていった。
「前方後円」の語は、江戸時代の国学者蒲生君平が19世紀初めに著した『山陵志』で初めて使われた。蒲生は、各地に残る「車塚」という名から、前方後円墳は宮車を模倣したものだと考え、方形部分が車の前だとした。


実はこれまで「前方後円墳」という言葉を当たり前のように使って来たものの「前方後円」という表現にずっと違和感がありました。それは「前にあるのが円で、方は後ろではないのか」という疑問です。もしかすると、ここに引っかかる人ってあまりいないのかも知れませんが、たとえば、よくある前方後円墳の写真(後円部が上になっているまさに鍵穴形の写真)を飛行機の絵だと思うと、操縦席がある飛行機の前の部分が上、つまり円の部分にあたるのです。だから、前方と後円は逆ではないかとずっと思ってきました。そんな子供のような疑問を払しょくするために発想を変えて、手前にあるのが方=前が方、だと思うようになったのがわずか数年前のことです。

前後

Wikipediaにあるとおり、前方後円という言葉を編み出したのが江戸時代の蒲生君平ですが、私の勘違いはさておいたとしても、この言葉はこの古墳を考えるにあたっての自由な発想を阻害してきたように思います。それこそ「前円後方」かもわからないし、「右方左円」かもわからない。考古学者の石野博信さんは突出部のついた円墳という意味で「長突円墳」という言葉を使っていますが、その意図は理解できます。

さて、この前方後円墳がどのようにして出来上がって来たのか、つまりその起源については次のように様々な説が唱えられています。

まず、弥生時代の円形あるいは方形の周溝墓の陸橋部分(通路部分)が発達したものとする説があります。死者の世界と生者の世界をつなぐこの部分が祭祀・儀礼の場として重視され、次第に大型化し墳丘部と一体化したとする考えです。奈良県橿原市の瀬田遺跡で弥生時代終末期の前方後円形の円形周溝墓が発見され、前方後円墳の原型と考える研究者がいます。

次に、弥生後期に各地で造営された墳丘墓の要素を寄せ集めた墳墓とする説。墳墓の形は吉備にある双方中円形の楯築墳丘墓を原形として、同じく吉備の特殊器台をもとに円筒埴輪を創出し、出雲の四隅突出型墳丘墓の葺石を取り入れ、石槨や石囲い木槨は讃岐の積石塚に由来する、といった具合です。この状況は魏志倭人伝にある卑弥呼共立に符合することから、前方後円墳が大和で誕生したという前提に立つと、邪馬台国大和説につながる考えであるともいえます。

さらに、幾多の考古学的知見が蓄積される以前の明治時代に、円墳と方墳が合体したとする説が「日本考古学の父」とも言われるウィリアム・ゴーランドによって唱えられました。この説に対しては、方墳は正方形または長方形であるものの、前方後円墳の方形部は撥形あるいは台形になっていることから、単純な合体によるとは考えにくいと思われます。合体説としては、主墳と陪塚が結合して前方後円墳になったとする説もあるようです。

また、弥生墳丘墓の突出部が変化して、死者を祀る祭壇あるいは拝所として前方部が形成されたとする説や後円部に至る墓道が大型化して前方部になったとする説、中国の天円地方の観念(円は神が住む天上界を表し、方は人間が住む地上界を表すという考え)を具現化したものとする説などがあり、ほかにも壺形土器の形や瓢の形、家屋の形、盾の形を模倣したというような説もあります。壺形説の中には、古代ユダヤの伝説にあるイスラエル王国の三種の神器のひとつ「マナの壺」を象ったものという説まであります。

邪馬台国が大和にあったと考える私としては上記の2番目の説、つまり各地の墳丘墓の要素を取り入れて出来上がった墳墓であるという考えに同調し、納得していました。一方で、この考えに拠ったとして、前方後円墳の出現に関する次のような疑問に対する答えがないことにもどかしさを感じていました。

疑問①
最近は前方後円墳の出現期を3世紀中頃とする考えが有力ですが、この出現期の前方後円墳(あるいは前方後円形の墳丘墓)や古墳時代前期前半(4世紀前半)の築造とされる前方後円墳が全国各地に存在するのはどうしてだろうか。各地で同時多発的に発生したのか、それともわずか半世紀ほどのスピードで全国に広まったのでしょうか。

疑問②
前方後円墳と同時期(あるいはそれよりも早い時期とされる場合もある)に発生した前方後方墳はどのように位置づけることができるのでしょうか。前方後円墳とはまったく別物なのか、それとも同じ由来を持つのか。

疑問③
一般的には埋葬施設は後円部に設けられていて、前方部は祭祀や儀礼の場、あるいは参道が発達したものとする説が有力ですが、この前方部に埋葬施設をもつ大型古墳(たとえば仁徳陵とされる大山古墳)がいくつも存在することをどう考えるべきでしょうか。

疑問④
大型の前方後円墳は見せるための墳墓だと言われていますが、本当にそうなのでしょうか。現代のように上から見ることができない以上、横からの姿を見せるということになるのですが、それなら前方後円という形にあまり意味がないように思うのです。


前方後円墳の起源について、これらの疑問に答えることができて初めて自分としての納得が得られるように思ったので、少し時間をかけて自分の頭で考えてみることにしました。

(つづく)

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