私とお笑いライブの「出待ち」


お笑いライブの文化の1つに、「出待ち」というものがある。

出番を終えたお笑い芸人が会場から出てくるのを待って、好きな芸人と会話したり差し入れをしたり一緒に写真を撮ってもらったりする、というものだ。
私がよく行っているような小さ目の会場でのライブだと、ジャニーズや宝塚などの出待ちのような押し合いへし合いにはめったにならないため、このように相互に交流することができるのである。

一時期はコロナで制限もあったようだが、最近はできるようになりつつあるという話も聞く。


たとえそうであっても、私は絶対に出待ちをしたくない。


手の届かない存在であってほしいとか、恥ずかしくて会話できないとか、そういったかわいらしい理由では決してない、と断言しておこう。

ただ、"一人格として"その(芸)人の中に私が存在してしまうことが、たまらなく怖いのだ。

端的に言えば、認知されたくない、ということである。

というのも、私はかなりの飽き性で、好きな芸人も大抵3カ月、下手したら数日スパンでコロコロ変わってしまうのだ。

仮に私が出待ちをして、その時自分が好きな芸人さんに"認知"されたとしよう。
その方は、ライブの度に、
「今日は誰と誰が出待ちに来てくれた」
「出待ちにはいなかったけど、誰と誰も観に来てたな」
などと、関わりのある客に思いを馳せてくれることもあると思う。
それで嬉しい気持ちになっていただけるなら、ファン冥利に尽きるというものだ。

問題は、言い方は非常に良くないが、残念ながら私がその方のネタやらなんやらに飽きてしまった時に発生する。
その方は、それまでよく出待ちに来ていた私が、直近のライブで出待ちをしていないことに気づくだろう。
そのうち、ライブ自体に来ていないことに気づくかもしれない。
ある日、久しぶりに出待ちで見かけた私が、別の芸人さんと話しただけで自分の方には目もくれずに帰ってしまったとしたら…

こうして、ファンが1人減った、と芸人さんを落ち込ませてしまうような残酷なことは、私にはとてもできない。

それに、出待ちをしていると必然的にお互いが会話をすることになり、私と芸人さんの心理的な距離感も近くなっているはずだ。
全くの他人ではないファンがいなくなったとなると、その方の精神的なダメージも多少大きくなってしまうことが考えられる。

"一人格として"その(芸)人の中に私が存在するようになるのが怖い、というのは、つまりはそういうことだ。


そうこう考えているうちに、Twitterにおいても、このライブに行っただとかこの人のあのネタが面白かっただとかいう類のことが、全く書けなくなってしまった。

同じ理屈で、置きチケ(芸人さんに直接お願いしてチケットを取り置きしてもらうこと)もできない。

勿論、出待ちをしている方(やTwitterにレポを載せている方、置きチケをしている方)を批判するつもりは一切なく、むしろ好きな芸人さんに直接応援の言葉を伝えることができる方々には、頭が上がらない。

単なる私の臆病さが原因で、その人に本来届くはずの応援が届かなくなってしまうのも、それはそれで絶対に違うからだ。

良い評判や肯定的な意見がSNSを席捲すれば、その人への世間の評価も必然的についてくるはずである。
好きな芸人さんが世間に"見つかる"というのはやっぱりファンとしては本望だし、その存在や素晴らしさなんかを発信するのは絶対にファンの役目だ。
そして、絶対にファンにしかできないことだと思う。

置きチケも、ものによっては芸人さんにバックが入るものもあるのだ。

そういった、芸人さんが"売れる"ことに貢献するための行為をしていない私は、ファンとしてなんだかものすごいズルをしているようで、罪悪感だけはずっとものすごく感じている。

だからこそ、敢えてこのような隅っこでnoteを書き始めたというわけだ。

長々と書きつづった私の言い訳を読んでくださった皆さん、ありがとうございました。


(ちなみに、自己紹介にお名前を挙げている芸人さんは、そんな私がずっと変わらず好きでい続けている方々ばかりです。是非とも知ってほしい)


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