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【追悼:三浦春馬さん】残された私たちが彼の死を無駄にしないために考えるべきこと

三浦春馬さんが自殺したという
衝撃のニュースを受けて

どうしても
いてもたってもいられなくて
追悼と、彼の死を無駄にしないために
おこがましいとは思ったが、

彼の死をただ単にショックで留めるのではなく、
彼のように「生きることを手放す」人を
減らすために、
私たちには何ができるのか、を
言葉に残しておこうと思う。

私が、この悲しすぎるニュースを聞いて
ずっと引っかかっているもの、それは、

彼ほどに才能に溢れた方に「生きる」を捨てさせたものは何か。

ということ。

今回の悲痛なニュースに、
理解に苦しんでいる人が多いのは、

「彼ほどに才能があり、
仕事もうまくいっている人がなぜ」

ということであると同時に、

彼の表情にも存在そのものにも、
彼の不安定さ感や不完了な感情があるようには
思えなかった、ということなのではないだろうか。

寂しそうな憂い感がなかったといえば嘘ではないが
彼の漂わせるオーラには
自分のそのルックスの良さの奢りがなく
心優しく誠実で仕事に熱心に打ち込んでいる
潔さと聡明な頭の良さを感じさせ、
好青年としか見えてこない。

何か歪んでいるな
何か溜め込んでいる感情があるな
何か迷いがあるな

という風には全くもって見えなかった。

例えば、誰かと比べるのは不謹慎かもないけれども
このニュースが
「あってもおかしくないかな」と思う芸能人は
もしかするとファンには失礼なのかもしれないが、
未遂があったりなかったりな、
華原朋美さんとか窪塚洋介さんとか?
他にもお騒がせな沢尻エリカさんとか・・・
だと、意外性が低かったように思うのだ。


そうは言っても、芸能界という
あることないこと言われ叩かれ
良い気も悪い気も受け、
あらゆる人のエネルギーが集まり

どれだけのメンタルの強靭さが必要か、
ということは想像に難くない訳なので、

このところ韓国でも日本でもSNSでの
誹謗中傷で自殺する芸能人が後を絶たない訳で、

いつ誰がこのように突然に死を選んでも
おかしくはない、ということなのか・・・

と、とても絶望的になってしまった。

彼が生きていたら、
彼自身が得られたであろう沢山の人生の味わい、、、

ーー大きな役へチャレンジ、さらなる素晴らしい映像作品との出逢いと成長、美しいものとの出逢いなどーーー

があったはずで、
さらに、彼が生きていたら
今後もさらに多くの人を魅了し夢中にさせ
彼がいることで癒され
毎日に活力を宿すきっかけになり
支えられ幸せになる人がいたであろう。

さらには、彼のような才能ある役者がいることで、
他の日本を始め世界中の
多くの俳優陣への刺激となり
また、彼がいるからこその
映画やドラマの新企画が起こることにより、
結果的にエンタメ界全体を引き上げていくような
社会的にも多大な功績をもたらしたであろう。

本人自身の幸せも、
本人が周りの人に与える幸せも
社会全体に与える幸せも
多大に存在し得たであろうものが、
潰えてしまった。

それだけの「生きる」が与える
「喜び」を持ってしても、

彼に死を選ばせてしまうほどの
悲しみや絶望はなんだったのだろうか、と
胸が張り裂けるほどに苦しくなる。


話が逸れるが、
私は映画やドラマが好きだ。
年間に100本以上、
小学生の頃から観続けてきたほどに
エンタメに支えられて生きてきた。

だからこそ、スクリーンの中で輝く俳優さんたちの、
純粋な「演技力」「スクリーンでの存在感」というものへの
多大なるリスペクトがある。

私自身にも多少なりとも
演技経験と、演出経験があり、
自分ではない赤の他人を
「演じる」ということの難しさと奥深さ、
俳優がよりその役に没入できるための
指示出しや訓練の難しさと奥深さも、
知っているから故に、

「芸能界」として華々しく、演技以外の部分さえも
晒し者にされてしまう社会の傾向を疎ましく思っていた。

俳優という職業が、いかに繊細で高度な仕事か、
世間にはあまり知られていない。

一度、役をもらったら、その役として日常も思考し行動する。
その人だったらどんな風に考え行動するか、
時に同じ職業の方に取材をし訓練をし体型までも変え、
これでもかというほどに徹底的に役作りをする。

想像力と創造力がなければ務まらない、
あらゆる能力の高さが必要となる仕事だ。

とてつもなくストイックで緊張感と集中力とで
常に自分というものを研ぎ澄ませて生きることの過酷さよ、
と感じている。

そう、「俳優」という職業は、
もっともっとその偉大さが讃えられてしかるべきだ、
と思うのだが、

世間はそうは問屋が卸さない、とばかりに、
日常生活までパパラッチが押しかけ、

誰かとのスキャンダラスやだらしなさをスクープしようとする。
それはまるで、嫉妬心の裏返しかのように、

不倫なんてサイテー、だの、一つ綻びを見つけようものなら、
叩きまくる社会構造がある。


・・・これが、どうしようもなく、
以前から疑問であり怒りだった。

どうして「叩ける」のか。
面と向かって人にいえない言葉を、
なぜ、SNS上なら、易々と使えてしまうのか。


どうして、あなたは
それを言わずにはいられないのか?

その言葉が、たった一つの言葉が
それくらいイイだろう、という言葉が
束になってかかってきた時に
どれだけのナイフとなって刃となって
人の心を傷つけるか、

あなたには想像力がないのだろうか。

不倫した人がいた、薬に手を染めた人がいた。
確かに褒められたことではないだろう。

だけど、それに対して
バッシングするときのその言葉、

あなたは言われて平気な言葉だろうか?

あなたは人生で一度でも、たった一度でも、
間違いも失敗もしたことのない人なんですか?

もしあなたのお子さんが、人生で失敗したとして、
同じこと、罵声や叩きをしますか?
もしくは、
お子さんが一度の失敗を叩かれているところを見たいですか?


そもそもが、あなたが、あなた自身の人生を真っ直ぐに
情熱的に生きていたのだとしたら、

多少、他人がやらかしたとて、
全くもって気になりもしなければ
むしろ、「失敗から立ち直れよ」と
心でエールを送るぐらいだ。


どうして、私たちに、そこまで、
赤の他人の人生の失敗に口を出す権利があるのだろうか。


これがずっと気になっている
社会課題であり、

必ずしも、三浦春馬さんの死の動機が
こういったところになかったとしても、


彼が、華々しかったであろう未来よりも
今目の前にあるこの世界を憂いていたと仮定したら、、


私は、私たちは、
もっと自分自身の人生を生きることに集中して
誰かを誹謗中傷するなんてくだらないことに
エネルギーを投じさせない社会を創るべきじゃないか。

自分を生きよう、誰かを誹謗中傷するんじゃなくて
誰かを応援する生き方をしよう、

自分の生き方が見えないなら
ゆっくり休んで、ただひたすらに毎日を丁寧に生きたらイイ。

心と体にエネルギーがたまったら
ちゃんと、必然的に、あなたの心から「やりたいこと」が
むくむくと湧き上がってくる。

人間はちゃんと、そういう風にできてる。
心も体も健康なら、
ちゃんと、自分の人生を歩めるようにできている。

誰かを批判しそうになったら
誰かにむかついたら
誰かに言葉の刃をむけそうになったら

それはいつでも水に流せる紙に書こう。
ああ、トイレットペーパーなんかイイんじゃない?

そして、応援しているなら、
少しでも言葉に出して行こう。
無言では伝わらない。あなたの心が、その一言が
この世界に生き続けることを選ぶ、希望の一筋になるかもしれないから。


そして、私たちで、残された私たちで、

彼が生きたいと思えたぐらいに、
この世を、誹謗中傷なく、支え合い応援しあえる、
もっと美しい場所にしていこうよ

その仲間として、誰もが
手を取り合うことは可能なんじゃないのか?

そう投げかけて、終わりたい。

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