許し許され振り振られ
映画の素人が、突然「そうだ、映画、つくろう。」と宣言して、
本当に映画プロデューサーになっちゃって、
その映画により30媒体ぐらいのメディアに掲載されたという経緯を経て、
現在はPRプロデューサーとして活動しています、三間瞳(みまひとみ)です。
案外知られていない「PR」について、お役立ち情報を書いていきたいと思っているのに、その前に、ここ数ヶ月考えていることを言語化しておきたいという欲求が出たので、そっちをまず片付けることとする。
「許せない人」の存在
これまでの人生で、私の価値観では、到底、許せない人たち、というのに、何人か会ってきた。
私がその時発した言葉としては、
「あり得ない」
この言葉を発したくなる人間関係には含蓄があるなと思う。あくまで、発する側の世界から見た言葉だからだ。
私にとっては「あり得ない」「信じられない」という常識を逸脱するような行為や出来事に思えていても、
実際に現実に起こったということだから、「信じる」とか「あり得ん」と感じたとしても、「あり得た」わけで、「在る」「有る」ということな訳だ。
私と相手と、その「現実に起きた事象」の捉え方の違いでしかないのだ。
あるときは、相手の「言葉のチョイス」と「言葉の発し方」が、あまりにもこちら側に感謝も配慮のカケラもなくキツすぎて
こんな言葉たちを「浴びせる」人と一緒に居続けてしまったら、体も心もおかしくなってしまうと思い、離れることを決意した。
しかし、その相手にその「言葉のチョイス」や「言葉の発し方」をさせたのは、こちら側の方だ。こちら側の何かが、相手が瞬時に血が昇って配慮など考える隙もなく、イライラや怒りのスイッチを押してしまったわけなのだから、その瞬間は、相手にとって、こちら側の方が
「あり得ない」
という風に映ったということである。
その際のイライラや怒りの表し方、こちらへの言葉の浴びせ方に、「えっ、その程度のことで、なんでそこまで怒ってるの?」「ポカン」としてしまって、今度は、こちら側が「あり得ない」と思ってしまったという経緯だった。
つまり、人によって「あり得ない」と怒りを感じるポイントが全然違うということだ。
観点の違いが生む亀裂
「あり得ない」と感じる基準があまりにも違う人たち同士が近くで一緒に居続けることはしんどいものだ。
それは、もし例えるならば、
「散らかっているくらいの方が落ち着くの」と言って、部屋が小汚い状態で平気なA子と、
「スッキリ片付いている部屋じゃなきゃヤダ」という綺麗好きのB子が、一緒に暮らす、みたいなシチュエーションがわかりやすいかもしれない。
「なんでこんなに散らかってるのよー!!きっーーーーー!!」とイライラするB子を尻目に、
「なんでそんなに怒ってるの?」とポカンとするA子。
ここで、「お互いを理解し合いましょう」なんていう表面的な言葉をかけようものなら、空々しく響くであろう。
B子が一生懸命に掃除しても、一切手伝わないA子が、片付けた側から散らかしていっていたとしたら、B子は「あり得ない」と我慢ならないだろうし、A子はA子で、B子が求める基準の綺麗さを保とうとするのはB子の観点からしたら窮屈すぎて「あり得ない」になり、しんどいだろう。
どちらかが我慢しないと、互いが互いの基準をクリアできないというのは、しんどいものだ。「あり得ない」という感情、「許せない」感情が蓄積していくのだから。
だが、A子もB子も、違うのが「部屋の綺麗さに対する感度」だけなのだとすれば、居住空間を別にしてさえいれば、「許せる」間柄になるはずだ。
こういう「あり得ない」というポイントが違うことで起こる食い違いとか、仲違いとか、もう、至る所で起こっているなぁ、と思うのだ。
上記と逆の体験もある。
私がこの価格ならばこのぐらい充実したサービス提供が受けられるだろう、と期待をしていたものに対して、中身がスカスカだと感じた時、めちゃくちゃに怒りを露わにした。
「こんなに支払ったのに、こんな内容、あり得ない」と。
だが、提供者側は、「なんでそんなに怒っているの?十分に提供しているのに」とポカンとしていた。
こんなこともあった。
私が口にした言葉を、私が意図する意味よりも、強く酷い意味として受け止めていた方が、「あなたの言葉のチョイスと表し方は酷い」というような趣旨の言葉を言って去っていったことがあった。
余談だが、私は自分が思っているよりも、自分が発する言葉の影響力が大きいから、もっと美しい言葉を使うように、と信頼する占い師に言われたことがあるが、まさにこういうことか、という体験だった。
たまに、失言に似た、言葉のチョイスを間違うことが、私はある。
あれ、ちょっとこの場には適切じゃなかったらしい、、、というやつ。
なので、ちょっとの言葉が揚げ足取りされてバッシングの嵐になっている著名人なんかを見ると、「あ、他人事ではないな」と勝手に自分の身を振り返るようにしている。
話が逸れたが、前段の人は、よくよく聞いてみると、私が意図したこととは違う受け止め方をしていて、「それは勘違いだよーーー」とは思ったが、ひどく傷ついてしまっていたようだったので、「それはあなたの勘違いだよ」というのが逆効果な気もして、ただただ詫びて、去る者は追わず、とした。
その人もまた、私のことを「あり得ない」「許せない」と思っていたのだろう。私が自分から去った人に対して思っていたように。
そんな風に「あり得ない」「許せない」というポイントの違いは、何かの誤解から生まれていることもあるかもしれないが、
往々にして、先のA子とB子のように、一緒に住むのではなく別々に暮らすという選択肢があれば互いに気にならずに「許せる」関係になるように、「適切な距離」を取ることによって、「許せる」ものことが多い。
そうやって、健常者同士だって、「あり得ない」「許せない」と互いの常識の基準が違うことでの、振り振られを日常茶飯事でやっているのだから、
障害者と健常者の間では、もっともっと、「あり得ない」「許せない」ということが、互いに起こりまくっているのである。
そう考えると、ただ単に「障害者も健常者も、みんな常に一緒に学び遊び働きましょう」というのもちょっと違うし、それはやっぱり綺麗事なのだ、と思うのだ。
許せる自分になってゆくこと
自分の基準を逸脱する行為や言動を見て、「あり得ない」と思ってしまう感情をなかったことにはできないし、それを我慢するのも違う。
かといって、自分だって、誰かに「あり得ない」と怒りを与えてしまうこともあるかもしれないし、これまでも実際にあったわけで、それで誰かをずっと「許せない」とその感情を握り締め続けているのも違う。
「許せない」と感じるなら、その距離感が適切ではないだけ。「許せる」距離まで移動して、「許せない」感情を手放して「許してゆく」。
その距離の移動は、「振る」とか「振られた」という表現になるのかもしれないが、そうやって誰かを「許して」いけるのなら、人間関係は循環してゆくはずだ。
健常者同士でさえ、そうした適切な距離感があるわけで、それをうま〜く言葉にせずとも推し計りながら、人間関係を築いているのだから、
ましてや、いろんな「あり得ない」を連発する、我が妹(統合失調症/35歳)がどうしたら良き人間関係を築いて行けるのか、というのは、悩ましい問題なのだ。
と、私のテーマである、「障害あるなしを超えて」というところに帰結させて、この記事を終わりにしようと思う。
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