平成X年競馬――平成7年シンザン記念

“あたりまえ”なんて存在しない。そんな“あたりまえ”の事実に気づいたのは平成7年。私は、世間的な“あたりまえ”からかけ離れた受験生だった。

 というのも、高校の3年間、大げさではなく、1秒たりとも勉強をしていないのだ。学力は中学レベルで完全に止まっている。担任からは「もったいないから受験料をオレにくれ!」と怒鳴られるレベル。自分でも合格するわけがないと確信していた。なぜ受験をするかというと、フリーターになるための親への形づくりである。

 勉強もせずに何をしていたかというと、競馬だ。高校の3年間、こちらも大げさではなく、すべての土曜日と日曜日は競馬場にいた。平日も、有力馬が出走するなら園田競馬場。園田がやっていないなら、競輪場か競艇場。夕方からのパチンコは日課。勉強するヒマなんてなかった。

 平成7年1月15日。
 同級生たちが大学入試センター試験を受けている真っ最中、私は阪神競馬場でシンザン記念を予想していた。

 1番人気はノーザンアスリート。戦績は無傷の3戦3勝。父は名種牡馬のノーザンテース。名門社台ファームの生産馬で、メキメキと頭角を現していた橋口弘次郎調教師が管理し、これまた伸び盛りの若手ジョッキー藤田伸二がまたがる。ここを勝った後、クラシックへ挑戦するであろう超エリートだ。単勝も1倍台と圧倒的な人気に推されていた。

 非の打ちようはどこにもない。シンザン記念はノーザンアスリートで決まり。マークシートに7番を塗った後、ふとこんな考えた頭をよぎった。

「いま同級生はセンター試験のマークシートを塗っているんだよなぁ。競馬場で1番人気をマークシートに塗っていて、今さら追いつけるのか?」

 なんだか急にエリートを買うのが嫌になってしまったのだ。マークシートを投げ捨てて、競馬新聞を眺めなおす。

 メイショウテゾロが目に入った。同期から遅れたデビューで、前走の千両賞を14番人気という低評価ながら、豪快に追い込んで1着になった馬だ。年間勝利数が一桁止まり、デビューして10年以上重賞未勝利、いつ騎手を引退してもおかしくない上籠勝仁が手綱を握っていた。
 私は心情を馬券に重ねることをあまりしない。しかしこのときは、同級生から完全に出遅れてしまった自分を、メイショウテゾロと上籠に重ね合わせた。

 レースは平均ペースで淡々と流れる。前走とは打って変わって先行策を取ったメイショウテゾロ。4コーナーで先頭に立つと、そのまま後続の猛追を振り払切った。逆にノーザンアスリートは4コーナーまで好位につけるも、伸びあぐねて3着に負けた。

 ノーザンアスリート陣営は、シンザン記念を勝つのが“あたりまえ”と考えていたはずだ。しかし直線でまったく伸びなかった。その後、この馬は1勝もできずに引退することになる。
 逆に、メイショウテゾロ陣営は、デビュー時にシンザン記念を勝てるとは考えていなかっただろう。なにしろデビューしたのが、わずか1カ月前の12月4日なのだから。しかも秋には16番人気の低評価を覆してG1で2着に入線することになる。競走馬の馬生なんてどうなるかわからない。

 あたりまえに受験に失敗すると思っていた私だが、メイショウテゾロの馬券を当てたことで、少しやる気が出てきた。
「よし、一浪しよう!」
 ずいぶん後ろ向きなやる気である。
 でも今さらジタバタしても合格できないのは自分自身がわかっていた。しかし1年あれば取り返せるかもしれない。今思えば、このときの選択が今の仕事につながっているのだから、不思議なものだ。

 さらに、2日後。私の“あたりまえ”を根底から覆す出来事が起こる。

 阪神大震災だ。

(つづく)

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