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バイト帰り、バスの中。
日暮れの駅はひしめき合って、JRもバスも路面電車も座れない人でたくさん。

疲れ、というよりは単に人より体幹がないので、いつも席が空かないかと目敏くいる。なんでみんな平気そうに立ってるんだろう。すごいな、と思う。

今日はなかなか空かなくて、バスの停車発車の度にふらふらゆらゆら。うしろの人にぶつかった。ほんとに、これ、申し訳ない。小声で謝って、小さくぺこぺこする。

降りるのは終点なので座れたらコクンと寝てしまうが常だが、今日は久方ぶりにnoteを書く。

祖父母の家に住み始めてから低浮上気味のspoonだが、バイトを始めていよいよ開く間が無くなった。もう4,5年もやっていたから、去ってゆく人消えてゆく人見てきたが、自分がそうなるのはちっとも想像してなかった。

ただ、支度して、掃除して、お化粧して。
ただ、料理して、食べて、皿洗って。
ただ、絵かいて、ギター鳴らして、本読んで。
あるいは眠るのを待って。

そういう、ただひたすらな生活の音、ただひたすらな独り言を、ひとりぼっちたちがひっそりと求め合って集まるような場所だった。

いろんな使い方ができるし、私自身もはじめからそういう場所にできていた訳では無い。

少しづつ、少しづつ。
大切にされること大切にすることを知って、
在り方のすべてが否定されないことを知って、
同時にその幾らかを受け付けられない心があることを認めて。

そうやって時を重ねたら、豪華絢爛ではなくとも、肌なじみ良く熟れた優しい場所になった。

去っていった人が、消えていった人が、そういう場所や人に囲まれているといいと願ってきた。

私の時間と交錯してくれた彼や彼女たちが住んでいた場所の天気予報をときどき見てしまう。地震速報が出れば、大丈夫かなと未だに思う。

思い返すと、言葉がいくらでも紡げてしまう。今のわたしを形作った多くが、ここで過ごした時間だった。今でも手放しがたく、ほとんど開かなくてもアカウントを残してるのはそのせいかもしれない。

山の上にある祖父母の家。
バスから降りると一際冷たい風が吹いて、
ぎゅっと奥歯を噛んだ。