映画とは関係のない話

映画を見たベースで書こうと思ったけれど最近、映画を見る余裕がないくらいの日々を過ごしていてnoteがまた疎かに。

幼少の頃から悩んできたことがある一つの書によってストンっと自分の中できたものがあり、映画でなくても自分が生きる上で書きたいことを書こうと思ったのでnoteに戻ってきました。


物心ついた時から自分の気持ちや考えを素直に他人に話すと大半が「繊細なんだね」と繊細な人ということでカテゴライズされる、もしくは「考えすぎ」とそれ以上の言葉を遮るような言葉をかけられた。
自身の感情や考えは他人からしたら共感を得られないものなんだと感じてからは、他人と話すときは自分が傷つかないように空気を読んで、相手に合わせて会話をして、自分を守ってきた。

この本を手にとって、単純に私だけでなく他の人も同じような状況で悩んでいる人がいるのだと安堵すると同時に、自身の性質なのだと受け入れざるを得ない現実に少し心が苦しめられた。
なんとなくわかっていたものの気にしないようにしていたことを目の当たりにさせられると狼狽えてしまうといったところだろうか。

突然だが、会社を休んだ。
誰にも言えないお休みだ。
けれど、これは私の中ではかなりの成長であるから罪悪感に苛まれる気持ちを少し部屋に閉じ込めて強制的に家を出た。

小さな頃から本音を隠して空気を読んで他人を気にして生きてきた弊害が大人になった今、身体に出てきている。自分のマイナスな心を、押し潰れそうになる程傷付いた気持ちを隠してきたからこそ、自分の心がどこにあるのかわからなくなることが多い。
嫌だという感情が芽生えてもなにによるものなのかがすぐにわからない。良いと想うものに関しては何を思って良いのかはすぐに言えるのに。

嫌だと思うものの、過去に他人からかけられた「考えすぎだよ。気にしないの。」という言葉を自分の中で呪いにしてしまったがゆえに嫌だと思っても気にしないと目を背けた。けれどそれは他人の基準であり、自身の中では日々消化されない気持ちが積み重なり、胃痛となり、呼吸が浅くなり、理由のわからない涙に変わる。

他人軸で生きてしまった弊害なのかとまた自分を責めて、心の自傷行為をする。しんどいけれど苦しいけれど言葉で説明できない涙に他人は困惑する。そこでまた自身が他人の命の時間を奪っていることに嫌気がさし、自分の心を解消するよりも早めに閉ざして切り上げてしまう。

それではだめなのだ。

これが私が誰にも言えないお休みをした理由だ。
自身のために弁解しておくと、他人に迷惑をかけると自身を責めて自傷行為をしてしまうため、仕事の方がついて今日くらいはいなくても大丈夫な日という日にお休みをしている。

自分の心と向き合って自分の好きなことをして自分の心の体調不良を少しでも解消できるように。できますように。

自分の人生なのに、生きていると自分の人生を生きていることを忘れてしまう。他人の顔色、世間の声ばかりを伺って萎縮して心と身体がどんどん死んでいく。
頭ではホームから落ちる想像や国道へ飛び出す想像、マンションから落ちる想像、大きな川に橋の上から手すりをよじ登って落ちる想像。
知らぬ人のトラウマになってはならないと最近では川に飛び込む想像ばかりをしていた。

他人の顔色を伺って他人軸で生きて、最期も他人を気にするってどれだけ他人ありきの人生なのか。


自分を変えたい。
ちゃんと変えて自分の心と身体を守らないときっと他人も傷つけてしまう。
まだ呼吸が浅くて胸が苦しくなるけれど、前を向うと思う。

大丈夫だよ、自分。
自分の心の悲鳴に気づけたから私は大丈夫。


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