黒川温泉~part2~【人気温泉街になるまでの物語】
こんにちは🎵
前回は黒川温泉の伝説の物語についてお話しました😊少しでも興味をおもちいただけでしょうか❓今回は前回に引き続き、私の大好きな黒川温泉の歴史について時系列でお話していきたいと思います🎶
~人気になるまで平坦な道のりではなかった黒川温泉の歴史📚~
1「鳴かず飛ばず」でいきなり存続の危機❓ー1960年代ー
「黒川温泉郷」としての歴史が始まったのは戦後から。1961(昭和36)年、6軒の旅館によって黒川温泉観光旅館協同組合が設立。「露天風呂を集めた温泉街」のコンセプトがスタートしました。
江戸時代中期には「湯治の場」として知られていた黒川温泉。肥後細川藩の国境付近にあることから、藩の役人も利用する「御客屋」として位置づけられました。明治になり、廃藩置県が行われた後も、けがによく効く温泉として半農宿の営みが続けられていました。
また、1964(昭和39)年に「やまなみハイウェイ」が開通し、観光客は一時的に増えたものの、すぐに「鳴かず飛ばず」の状態に落ち込んでしまいます。黒川温泉でもそんな落ち込み時代があったなんて知らなかったので、驚きです💦
2.黒川を変えた“若手の風”ー1970、1980年代-
高度経済成長が続き、車社会の到来も進んだことから、阿蘇や杖立、別府などの大型旅館のある温泉地は大繁栄を極めていました。一方の黒川はやまなみハイウェイの開通効果も一時的なもので終わり、相変わらずの鳴かず飛ばずの状態。更に2度のオイルショックは追い打ちをかけ、先の見えない空気が黒川全体に充満していたそうです。
しかし時同じくして、黒川温泉へ若手の風が吹き込んできました。Uターン、婿入りなどで旅館の「二代目、三代目」が黒川に現れたのです。彼らは都会での経験を活かし、新たな温泉郷の姿を模索しました✨若者はいつの時代も貴重な人材ですね!
さらに1980年だいには、露天風呂が作れない2件の宿を救うため、黒川の全ての露天風呂を利用できる「入湯手形」を発案。「露天風呂めぐりの黒川温泉」というブランドが作られました。一軒で盛り上げていこうではなく、仲間と盛り上げていく精神は素敵ですね😄ますます黒川温泉が好きになりました👍✨
3.「黒川温泉一旅館」のコンセプトー1990年代以降-
入湯手形が評判となり多くのメディアに取り上げられたことから、1990年代には宿泊者数が30万人まで増えました。2003年には宿泊者数40万人、推定入込者数120万人まで増加しました。凄い😆!!現在は2016年にあった熊本地震を乗り越え、地震前までの水準まで客数も戻すことができたそうです。
そんな黒川温泉のコンセプトは『黒川温泉郷全体が一つの旅館として、ともに磨き合う』というもの。そのために、(1)緑豊かな景観、(2)入湯手形による露天風呂めぐり、(3)感謝イベントと研修との3方面のブランドの確立を行っていったそうです😊ここでも「一体感」を大切にしているのが伝わってきますね✨温泉って何がいいかというと非日常の空間だからだと個人的に思っています!その1つが温泉街の街並みだったり、癒しの空間ですね😌また、自然を守りながら発展していくコンセプトも素晴らしいと思いました!!
今日は黒川温泉の歴史について書いていきました!繁栄するまでにも波乱万丈な物語があるんですね😌次回は黒川温泉のビジョンについて書いていきたいと思います!!どこまで好きなんだ~!てね(笑)
それではこのへんで、また~👋
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