大丈夫、あなたは生きていける


「マンションは処分しました」

父親から来た最後のメッセージだった。3年前のことだ。

入籍を控えた兄から、
「久々に実家に帰ったら家具や物が何もなくなっている。父もいない」
と連絡が来た。

その連絡を見た私は
「ああ、彼もついに死んだのかな」と冷静に考えていた。
そうであって欲しいとも、どこかで思っていた。

普通に考えたら、実の親に対してそんなことを思うのは間違っているし、ろくでもない娘だと思う。
だが私はそう思うことでしか父のことを思い出せなくなっていたし、彼が生きていても辛いだけだと知っていた。

結局は、母や兄に「お願い」と頼られた私が、父の勤めている会社に電話を掛けた。
「父親の消息がわからないのです。実家がもぬけの殻で」と電話口で話し
電話に出た職員に、本当に娘なのかどうかを疑う本人確認を何度もされた後、
「お父様はもう退勤されましたよ」と報告を受けた。

あーあ、なんだ、まだ生きているのか、と落胆した。

その後、会社から報告を受けたのか、父からショートメッセージが届いていた。
ローンが払いきれず、マンションを売り払ったことが書かれていた。
家族全員が夜逃げをするようにあの場所を逃げ出していたため、さぞ物は多かっただろう。

卒業アルバム、ランドセル、たくさんの本、演劇部の台本。他に何があったかな。
処分したのか、何もかも。それでもあなたは生きているのね。
地獄のような日々を送ったあのマンションの一室が、ついに売り出されるのか。

そう考えながら、コンビニの外でタバコを吸った。
息を吸う度にどこかが苦しかった。
そのことに気づかないふりをするために、ひたすらタバコを吸っていた。



16歳の頃、母が家を出て行ってからのことは、覚えているようで、覚えていない。
多分、全てを覚えていたら、私自身が壊れてしまうからだと思っている。

父と兄はよく喧嘩をしていた。
時には殴り合いになることも多く、私がいつも止めに入っていた。
鼻血を出して横になる父の隣で、フローリングの間に入った血の汚れを拭いた。
その日から血が苦手になった。

父は大のギャンブル好きだった。
ニコニコと私に話しかけてくる時のセリフはいつも決まっている。

「金貸してくれる?」
「1万円だけある?」
「バイト代入った?」

兄は私のお金を盗むのが趣味だった。
母に何度相談をしても、取り返してはくれなかった。
「わかる所に置いているのが悪い」と言われた。
ホームセンターで南京錠を買って、自分の部屋に付けていたことがある。

誰も信じられなかった。
どうして味方をしてくれないのだろうと、いつも思っていた。

母が出て行った後、私の地獄の毎日は、更に救いようがなくなり、
いつしか私の腕は傷だらけになり、死ぬことをよく考えるようになった。

「お兄ちゃんはね、あんたとは違って不器用なのよ。だから守ってあげないと」
「あんたは真面目だから大丈夫。一人でもやっていける」


母の次に家を出たのは私だった。
20歳の誕生日当日。
2匹の猫をキャリーケースに入れ、夜逃げをするように家を飛び出した。

嬉々として家を出たはずの母は、いつの間にか私にグチをこぼすようになり
「やっぱりそっちにいた方が良かったかな、お母さん」と話していた。
認知症にかかった祖母のことが受け入れられず、彼女も彼女なりに苦しんでいたのだと思う。
でも、娘の苦しみにはずっと気づいてはくれなかった。今現在もそれは変わらない。

一家解散を経験した私は、毎日「死にたい」と「生きたい」の狭間を彷徨い続け
いつしか、「誰かが必要としてくれるなら生きよう」と考えるようになる。

今日こそは飛び降りようと立ちすくんだ、
北品川にある陸橋、南船橋駅のホーム、新松戸駅のオレンジ色の電車。

本当はね、お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、だいすきだったんだよ。
何度裏切られても、ひどいことされても、傷つけられても、
それでも大好きだったから、許すことが愛だと思っていたし、
いつかは必ず報われるってずっと信じてた。
いつかは必ず報われるってね。信じてたから生きていたのに。

たくさんたくさん泣いたし、たくさんたくさん叫んだし、もがいていたけれど
あの時間、私は確かに生きていた。
努力は必ず報われるとか、想いは必ず届くとか、そんなことはもう信じられなくなってしまって、
あまりにも「そうではないこと」が多すぎて、何度も何度もくじけたけれど。

10年以上経った今も、私は何故か生きていて、結婚をして、出産もした。
腕の傷跡はすっかり薄くなってしまったけれど、たまにうっすらと浮かび上がってくる。
息子の小さな手がその傷をなぞる度、私は「生かされた」のだと感じる。

まだ愛されることしか知らない息子は、毎日私を困らせ、時には泣かせ、
それでも「だいすきだよ」と言わんばかりに、私にしがみついてくる。
あの時死んでいたら、こんな気持ちにも気づけないまま終わっていたのかな。

まだまだ、わからないことも多いし、許せないことも、納得できないことも、
泣いてしまうことも、怒ってしまうことも、全部あるけれど。
それでも良いかなと今は思えている。
わからなくても良いことがあるんだと、やっと自分に言ってあげることができた。


夜、眠っていて、目が覚める直前、昔の自分が見えることがある。

今はもう売りに出されたあのマンションの一室で、私が泣いていて。
膝を抱えて、声が漏れるくらい、ただただ泣いていて。
そこにぴったりと2匹の猫が寄り添っていて。
そんな自分を見て、思わず泣きそうになるけれど、そっと近寄って、ぎゅっと抱きしめる。

「大丈夫。あなたは生きていける。」

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