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喉にスイカがつまった

この世では何をしてもいいと思う。お母ちゃんに馬鹿って言っても、人を殺してもいいと思う。本当にそう思う。

善と悪は必ず視点をもって存在する。人が言う善悪は基本的に社会の視点だ。でも社会は元々あったわけじゃなくて、もちろん人がつくった。みんなが幸せになれるように「殺されたくない」から「殺してはいけない」というルールを作って、それが法律になって、社会の前提となった。そして僕らはその社会が身体に染み込んだ人達が生きる時代に生まれてきた。文明や社会の誕生から現代までのこの長すぎる時間差が僕たちに残したのは、絶対的な善悪の思い込みだ。頭では所詮誰かが作った掟とわかっていても、視点をどこに置くかなんて関係のない絶対的な真理のように誤認してしまってる。社会が掲げる善悪はみんなの「してほしいこと」「してほしくないこと」でしかないことを忘れてしまってる。

自分がみんなと同じように人を殺して幸せにはなれなくてお金を盗んで平気じゃいられない身体で良かったと思う。それを「非道」とか「最低」だとかいえるほど人を殺す人の気持ちなんて分からないし、社会に迎合できなかった場所からの景色を、そこに広がっていた宇宙を想像することなんてできない。吊るし挙げては叩いて、何が平和だ平等だって思う。僕がマジョリティのルールにそぐわない意志を持って生まれて来てたら、それを簡単に”悪”だと言われたら、僕はすぐ世界を諦めるとおもう。

思い込みを全部とっぱらった先、最後に残るのは、誰かを殴る、とか、誰かを愛する、とか、形としての動きだけだ。記号や言葉もない獣と同じ。あとは、山がそこにある、とか、星が光る、とか。それが全部だと思う。

僕はお母ちゃんに馬鹿って言いたくないし人を殺したくない。したいからしてる。

強い意志があるせいで体内の矛盾に何度も爆発と抑制を繰り返したり、好きになれない歴史や文化に生活を脅かされる人を沢山見てきた。僕も他人事じゃない。そういう類の人は信じたい事柄や好きになれない歴史背景のせいで整合性のとれた考え方を思索することよりも自分の中にある感情や反骨心の保守を優先する姿勢になっている気がする。だから加速する。でもそれらの意思の出発点には優しさ、正義がある。自分がマジョリテイという社会的に優勢な立場ならなおさら自分の声の方が通りやすいという怖さを考慮してものを考えたいと思う。論理的ではないからといって感情を交えた主張を揶揄して蓋をすることは最終的な目的と倒錯してるし、なんの解決策にもならない。
優しい人が、優しいから悲しくなっている。青二才ながら僕は優しさで本当に世界は変わるんじゃないかと思う。分かるじゃなくて分かろうとすること、好きになるじゃなくて好きになろうとすること。優しくしたいというエゴが平和な世界をつくるんじゃないかと思うんだ。
なんか、ビビって抽象的にしたからよく分からんくなってきてるな。ほんでいつも啓蒙チックになる。きもい。ごめん。

昨日鴨川で一人の女性が寝転んでいたから少し離れたところで僕も寝転んだ。その人の無くし物を一緒に探して仲良くなった。敢えて伏せるけど彼女は明確な文化的思想を持った人だった。強い意志とこのままではいけないという二極化した自分が嫌になっていた。だから死のうとしてた。
彼女は初対面の僕にブレイクダンスみたいやなやつを見せたあと、大きいスイカを一口で食べようとして喉にスイカを詰まらせていた。ほんで木の葉っぱを噛んで「ゴルジ体っ、ゴルジ体っ、」てゆってた。
素敵な人だったから、生きて欲しいなあ。

社会のねじれ。もうお腹いっぱい。
というか、スイカって喉につまるっけ。
スイカ。すいか。
そんな怖い顔で読まないで。
僕が言うことは全部冗談。すいか。

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