友よ
僕は映画より絵が好きだ。
飲食店で隣のテーブルのワードに引っ張られて話題が伝染する。話した本人は聞こえてきた話に引っ張られた自覚はなく、その話題を急に出したことに意図はない。
意識的か無意識かを問わず僕らは五感での認知を行って、自分を介した後言葉や形にして出している。情報の吸収を担う認知の偏りこそがその人の個性で、それぞれの生き方の分岐をつくる。
エネルギーの突出は、表立った意味や構成の意味は無くとも鬱結した感情や考えの核を持つ。意味はないものでも、核の存在は作品の文脈や構成を超えて、最も潜在的な意味を持たせると思っている。
僕はゲームより苺が好きだ。
小説よりも詩が好きだ。
今日大学の時の友達4人と居酒屋に行った。ぼくはお酒が得意じゃないから飲まなかった。みんな変わってなかった。沢山笑った。
歳をとるほど人にわかってもらえないことが多くなったし、人のわからないことも多くなった。でも好意で繋がっていられる。大学生活そのものみたいで、懐かしくなった。橋がどんどん細くなっていくのが見えているけど、渡り方は上手になっている。
大学では不自由な気持ちになることが多かったけど、思い返すと自由だった。大学にはルールがあって、講義室には天井があった。
大学の授業でこんなものがあった。悪魔に取り憑かれたと言われていた症状が、胃腸で起こる炎症だと解明された。痛みゆえに声を出してのたうち回ることから悪魔に取り憑かれていると言われていたそうだ。ただ、この手の講義にはいつも疑問を抱いて次に進めなかった。この病気が胃腸で起こっていた炎症なことが分かっても、悪魔に取り憑かれたという推測が無かったことにはならないからだ。物事には物理的な動きとそれに対応する意味があると思っている。つまり、同時に別次元からの解釈が存在し、それらの解釈は僕らのなかに複数個共存しうるということだ。それは僕だけじゃなく、みんなしている。例えば、あなたが誰かを愛していたとしよう。エッチしていたとしよう。それを宇宙人が見たときに、「あれが愛か、彼らは愛し合っているんだ」と捉える。でも他の宇宙人が解説する。「いや、人間は電位変化で動いていて、子孫繁栄のためにその電位変化を繰り返して体を動かすことによって異性と接触し始めるんだ。だから、愛していたっていうのはひと昔前の迷信なんだ。」。あなた「えちょ、ちが、あの、」長友「えちょ、ちが、あの、」。つまり僕らは物事に対して、「物理的な動き」と「それに対応する意味」を並行して解釈している。僕らは「電位変化で行動」して「人を愛する」。同じように「胃腸でおこる炎症」が「悪魔が取り憑ついた」時に対応する物理的な動きである可能性は否定できないんじゃないか。別次元での解釈の発見が、元々の解釈を否定する理由にはならないんじゃないか?あなた「えちょ、ちが、あの」長友「えちょ、ちが、あの」小学生の長友「俺アンカーがいい」3歳の北島康介「水泳やりたい」。
「行動」とそこに現れる「意味」。僕らは行動を連ね意味を重ねながら日々過ごしている。その2つに関係はあるけど、真面目な連携はとってはいない気がするなあ。森保監督「確かにな。」僕は楽しくても苦しくてもタイヤで走る。としみつ「セカンドパートナーねぇ、、」好きになっても悲しいし悲しくても走るなあ。冗談じゃないよ!!!!!冗談じゃなくて本当だよ!!!!!!!
文句 狂犬「芸術は爆発だ」
最近気づいたことがある!
僕は海より川の方が広いと思う!難しく考えず、目で見たとき、広いと思うのはいつも川だった。限りのない海に広さは感じにくかった。空よりもガソリンスタンドの方が広かった。だから僕は結婚した方がいい。自由に直面した時の窮屈さは言語に絶する。
楽しい人よりも優秀な人の方が大切だが、楽しいことは優秀なことよりも大切だ。視点を変えるんじゃなくて視点を減らすこと、凄いことじゃなくて、凄くなくても良くなることが大切だ。この世は「過ごせた」者勝ちだ。
川が好きだった。ガソリンスタンドが好きだった。それだけ、そんな宙ぶらりんな言葉や感覚だけが手元にあった。そこに意味はなかったけど、意味があった。その隙間は確かな文脈で埋まっていた。
最近そんなことがよくある。
それが先に示した意味だ。子供の頃から誰もが持つ、心の核だ。
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