三十二才にして無感動になる。

 三十二にして二十代の頃の感動は消えたが、このままではいけないと思った。ハングリー精神と言われて、飢餓感というのは貧乏人が持つもので、お金持ちになりたいというのが一昔前のセオリーだった。それも私が生まれる前の話だ。
 我々ゆとり世代というのはほとんど生まれてから大人になるまで不況という状況のなかに暮らしてきた。別に貧乏な生まれでもなかったが、不況という言葉はテレビから聞こえてきて耳にタコができるほど聞かされてきた。
 最近、三十二になってから意識するようになったのは体の老いである。私は趣味が車で長距離の旅に出ることだから、運転だけで疲れてしまうようになった。これは二十代の頃には考えられないことだった。
 したがって、ここ2年ほど、ジョギングと打ちっぱなしを週に2回、腕立て伏せと腹筋は平日、簡単にではあるが行なっている。二十代の頃はあんまり長距離の運転でも疲れたことがなかったが、今では長い時間本を読むのさえ疲れを感じるようになってしまったから習慣的な運動をすることにした。
 ただ、恐ろしいことは二十代の頃のように感動しなくなってしまったことが気になってしかたがない。映画を観て泣くことはある。スラムダンクを読めば毎回号泣する。ただ、旅先での景色を思い出すときは必ず二十代の中ごろのときのものしかない。
 もちろん、三十歳のときに島根県の足立美術館に行き、そこで見た動物の日本画を前にして泣いた。ただ、今思い返してみてもしみじみとは思い出さない。
 私は今感動しなくなってしまったのかと驚いている。一体どうすれば、失われてしまった感動を取り戻すことが出来るのか。今はそればかり考えている。
 確かにあの頃はがむしゃらだったような気がする。劣等感をテコにして二十代は毎年400冊の学者の書いた本を浴びるように読んだ。知的好奇心に動かされるままに読書に研究に励んでいたはずだ。
 今、三十二にしてあれはハングリー精神だったのかもしれないとは思う。それを取り返したい。そのためのルーティン、規律訓練として習慣的な運動をすることにした。ただ、まだダメだ。感動する心はやってはこない。もっと他にすべきことがあるはずだ。今、もしかしたら人生で凪ぎの瞬間のなかにいるのかもしれない。