国学者、賀茂真淵について

【賀茂真淵】 
 賀茂真淵「かものまぶち」は、遠江国「とおとうみのくに」で、神職の子として生まれました。遠江国とは、現在の浜松市あたりのことです。賀茂真淵は、荷田春満に学び、国学者となりました。国学4大人「しうし」の一人に数えられています。賀茂真淵は、日本の古典を重んじました。特に、万葉集の研究者として知られています。その代表的な著作は「万葉考」という注釈書です。賀茂真淵は、学者として古典を研究しただけではありません。彼自身も歌人でした。
 
 【国学】 
 賀茂真淵は、国学を独立した学問として体系づけようとしました。そのため、古典を研究し、その価値を再評価したとされています。賀茂真淵は、自身の著書「国意考」の中で、日本古来の精神への回帰を説きました。「国意」とは、日本人の精神のことです。従来、日本人は、外来の儒教や仏教の影響を受けてきました。国学者の目標は、それ以前の純粋な日本人の精神を取り戻すことです。それには、日本の古典を研究することが必要だと考えました。日本古来の精神とは、具体的には神道のことです。神道は、日本独自の風土の中で、自然発生的に生まれました。それは、日本人の精神の土台にあるものです。賀茂真淵は、この日本古来の精神によって、現実の政治をも治めようとしました。
 
 【益荒男振】 
 本来の日本人の心を「益荒男振」と言います。益荒男とは、もともと立派な日本男児を意味する言葉でした。例えば、勇敢な「軍人」や「兵士」など、強くて逞しい男性のことです。そうした男性は、大丈夫とも呼ばれています。益荒男振「ますらおぶり」とは、歌風や人間のあり方のことです。その歌風を「万葉調」と言います。万葉調は、奈良時代の、白鳳、天平文化の風潮です。その歌風は、高貴なのに、心が和らぐ感じだとされています。万葉調は、生活における素直な感動を具体的に表現したものです。そこには、技巧などの小細工がありませんでした。益荒男振は、高く直き心「たかく、なおき、こころ」を表現しています。「直き」とは、内面のあるがままの感情のことです。益荒男振は、それを歌という形で表現しました。
 
 【手弱女振】
 益荒男振の対義語を「手弱女振」と言います。手弱女振「たおやめぶり」とは、女性的な歌風や人間のあり方のことで、古今和歌集に見られる、繊細でしなやかな歌風のことです。そうした歌風を「古今調」と言います。古今調は、平安時代の京都の歌風です。素朴な万葉調と比べると、技巧的でした。古今調は、近代に至るまで、歌壇の主流となっています。賀茂真淵は、作為的な古今調に対しては批判的でした。それに対して、本居宣長は、古今調の方を高く評価しています。
 
 【唐国振】 
 賀茂真淵は、外来の儒仏思想によって、日本古来の精神が失われたと考えました。その外来の儒仏思想を唐国振「からくにぶり」と言います。賀茂真淵は、その唐国振に対して批判的でした。特に儒教は、人為的で、理屈っぽいと感じたからです。儒教的な道徳は、人間の自然な感情を抑え、考え方を狭くさせてしまいます。そうした考え方は、世の中を治める側にとっては、都合が良かったのかも知れません。江戸時代の官学も、儒教の一派である朱子学です。朱子学では、人為的な君臣の関係を重視しています。賀茂真淵は、そうした朱子学に対して否定的でした。

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