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倭建命の生涯

【倭建命】
 倭建命「ヤマトタケルノミコト」は、日本を代表する英雄です。別名を、小碓命「オウスノミコト」と言います。小碓とは、産湯を使った石のタライから名づけられました。日本書紀では「日本武尊」と表記されています。「命」や「尊」は、飛鳥、奈良時代に神や皇族などに付けられた敬称です。倭建命は、実在の人物ではありません。大和朝廷の複数の英雄たちを統合し、それらを一人の人物としたのではないかとされています。
 倭建命は、第12代景行天皇の第2皇子として生まれ、幼少の頃から文武両道でしたが、性格が乱暴だったので、双子の兄「大碓命」を殺してしまいました。そのため、父から疎んじられたとされています。景行天皇は、自分から遠ざけるために、倭建命に九州や四国地方をの征服を命じました。それを征西事業と言います。倭建命は、この時まだ16歳でした。

【征西事業】
 倭建命は、手始めに南九州の熊襲を征伐しようと考えました。その前に立ち寄ったのが、叔母のいる伊勢神宮です。その叔母の名を「和姫命」と言います。和姫命は、倭建命に「巫女の衣装」を贈りました。成人前の倭建命は、美少女に変装出来るほどの美少年だったとされています。それを利用して、女装した姿で、熊襲の宴会に忍び込みました。当時、熊襲を支配していたのは、二人の兄弟です。倭建命は、兄弟が泥酔したところを、初めに兄を打ち取り、それから、弟を打ち取りました。弟の方は、討たれる時に、倭建命の智勇を賞賛し「倭建命」という名前を与えたとされています。
 次に標的になったのが「出雲建」です。出雲は、鉄産業による強大な国だったとされています 。倭建命は、無理に戦おうとせず、まずは出雲建に取り入って、友好関係を結びました。なぜなら、油断させてから、騙し討ちにしようとしたからです。倭建命は、あらかじめ、出雲建の真剣を木剣にすり替え、その上で立ち合いを持ちかけたとされています。出雲建は、木刀では、防御することが出来ず、殺されてしまいました。しかし、倭建命は、もともと出雲建と仲が良かったので、その死を惜んだとされています。

【東征事業】
 倭建命の征西事業は成功しましたが、景行天皇は、まだ満足しませんでした。そして、次に命じたのが東征事業です。倭建命は、その前に、また和姫命の所に立ち寄り「天叢雲剣」と「火打ち石」の入った袋を受け取りました。この天叢雲剣は、三種の神器の一つです。
 駿河国の国造「くにのみやつこ」という人物は、倭建命を殺そうと計画していました。国造とは「地方の長官」のことです。駿河国の国造は、倭建命を言葉巧みに誘い出し、野原で火責めにしましたが、倭建命は、天叢雲剣で、辺りの草を薙ぎ払い、火が燃え広がるのを防ぎました。この時から、天叢雲剣は、草薙の剣と呼ばれるようになったとされています。倭建命は、さらに火打石を取り出し、向かい火を放って、脱出することに成功しました。静岡の焼津という地名は、この出来事が由来だとされています。倭建命は、火計を逃れたことにより、難局打開や防火の神とされました。


【伊吹山の神との戦い】
倭建命の后だったのが、弟橘比売命です。ある時、倭建命は、航海中に海を侮った発言をしたため、海神の怒りを買ってしまいました。海神が、嵐を起こし、船を沈めようとしたので、弟橘比売命が、自ら人柱となって、海へ飛び込み、嵐を沈めたとされています。
 弟橘比売命を失った倭建命は、次に尾張で美夜受姫と結婚しました。美夜受姫は、熱田神宮の創設に関わった人物とされています。ある時、伊吹山という所では、ある神が暴れていたので、倭建命は、それを退治しようと考えました。この伊吹山は、滋賀県に実在しています。倭建命は、山を登る途中で、牛のように大きな白い猪と出会いました。それが山の神の正体で、倭建命は、不思議な大氷雨に打たれて、その神の毒気に当てられたとされています。その毒気を抜くために休みましたが、回復せず、三重県の辺りで、享年30歳で亡くなりました。その魂は、白鳥になって飛んで行ったとされています。

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