コロナコロナカココロノナカ

新型コロナウイルス感染症が5類に移行されてから街の様子は変わった。新幹線のホームは海外の方も含めて人が溢れてるいるし、飲食店はまるで【黙食】なんて言葉は存在しなかったように賑わってる。
「緊急事態宣言」やら「まん延防止措置」が発令された時は、それらへ適応していくことが難しかったのに、経験したことのある【日常】ってものに戻ることは一瞬でできてしまう。ある意味怖いけど、また別の意味では人間の『経験したことのあるものへの適応力の高さ』のと『切り替えの速さ』は素晴らしいと思う。

多かれ少なかれこの3年、私たち人間はコロナウイルスという人の目では見ることのできない得体の知れないソレと闘ってきた。
私自身も漏れることなく罹患したわけだが、果たして目に見えないソレからなにを学んだろう。
会いたい人に会うことができず、伝えたいことを直接伝えることもできず、人の温もりを肌で感じることもできなかったあの期間。それでも人の想いも温かさも優しさも感じることができたあの時間。目に見えないソレと、目に見えないもので戦い、共存しようと必死だったこの3年、私たち人間は本来持ってるであろう目に見えないものを信じる力で繋がれていた気がする。
なんでも簡単に繋がれてしまうこの時代だからこそ(SNSでの繋がりは、繋がった気になってるだけが大半だと個人的には思ってるけど)、目に見えないソレから突き付けられた挑戦状だと思ってたし、思ってる。
経験したことのある日常へと戻りつつある今日。戻りたいと思っていたあの日が手を伸ばせばすぐそこにある今日。待ち望んでいたはずなのに、私が戻りたいと思ってた今日とはなにか違う。

RADWIMPSのココロノナカという曲に
【僕には帰りたい 明日があるから】というフレーズかあるけれど、帰りたい明日の意味が、制限が解除された今日のことならたぶん私が帰りたかった明日ではないと思う。きっとこの3年で経験し得た大切なものを投げ捨てて取り戻した日常は、帰りたい明日ではなく、ただの過去だと思ってる。

コロナから、コロナ禍から学んで、いまココロノナカで思うこと…。帰りたい明日は、過去に得た大切なものを抱えて作る新しいものであって欲しい。



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