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十三仏思想から窺える日本的他界観

 十三仏思想は、ある意味、仏教と道教、そして儒教が融合された十王思想をベースに、さらにその上へと、死者に対する日本独特の思いが積み重ねられて成り立ったものと考えることができます。
 十王思想とは、死者の中有・中陰の期間に生前の行いが裁かれ、四十九日に六道の内の何れかに生まれ変わるとされていた元々の考え方に、さらに三度の審判の機会を追加し、それぞれの裁きを掌る十王を、以下のように想定したものです。
 このうち、四十九日の生まれ変わりは、仏教の六道輪廻に基づくもの。そして追加された三度の審判というのは、儒教の服喪期間が反映されたものだと考えられます。さらに、その裁きを掌る十王には、道教の影響を伺うこともできます。
 このように、十王思想は仏教、道教、儒教という三大宗教の考え方が中国で混合・醸成されたものであると考えることができます。しかしこれが日本に接ぎ木されると、独自の進化を遂げることになります。
 まず、「十王」が「十仏」に比定され、十仏思想に置き換えられます。神仏習合の日本では、十王の本地としての十仏を探すことが、当然のこととして行われたというわけです。
 ただここまでであれば、受容する上での変質ということであったのかもしれません。ところが日本では、この十仏に、さらに三仏が加えられ、十三仏思想へと進化します。このことは、追善法要のさらなる長期化を意味します。
 十仏思想では、七・七(四十九日)と百箇日、一周忌、三回忌まででしたが、ここに七回忌、十三回忌、さらには三十三回忌が加えられることになったのです。ちなみに十三仏思想に関わる七回忌以降の追善供養は、鎌倉時代以降に定着してものだろうと考えられています。
 日本で独自に発展を遂げた。十三仏思想。私たちは、ここに何を見ることができるでしょうか?
 何はともあれ、すでに述べた追善供養の長期化を抜きにすることはできません。十三仏思想が示しているのは三十三回忌までですが、実際には五十回忌、七十回忌、果ては百回忌までの例が散見されます。こうなると、追善供養そのものの意味が変わってきます。
 そもそも追善供養とは、死者が輪廻し、新たな生を得ることを前提にしたものでした。したがって当初、その回数であり、その年月の延長は、それが完遂されるための“保険”のようなものだったはずなのです。
 それが、後の生まれた廻向の考え方により、死者が生前に犯した罪を軽減し、恵まれる新たな生がより良きものとなるようにという祈念へとつながりました。こうなると、回数と期間は長いほど効果が得られると考えられたことでしょう。浄土思想の浸透によって、それは死者を間違いなく浄土へ送り届けることが目的化したのかもしれません。
 ですが、そうした祈念が、後には十三仏思想によって担保された三十三回忌によっても満たされることなく、さらに回数と年月の延長を遂げてきたことを思うと、また別な理由を考えざるを得ないようにも思えます。例えば、死者を転生させたくはない、浄土へやりたくはない、といったような…。
 そこには、少しばかり柳田國男の示した他界観が見え隠れしているようにも思われてなりません。