<象>に語り掛ける【読書録】ジョナサン・ハイト著、高橋洋・訳『社会はなぜ左と右に分かれるのか』(紀伊國屋書店)
社会心理学者(道徳心理学)である著者は、デイヴィッド・ヒューム『人間本性論』の記述を引きながら、理性≒思考は、直観という<象>の<乗り手>に過ぎず、<象>が示す感情を正当化するためだけに働くと言います。
そしてまた、<乗り手>である理性≒思考がその正当化に失敗しようとも、主人である直観<象>は判断を変えはしないとも指摘します。
したがって、相手の行動を変えようと思うなら、<乗り手>である理性≒思考にではなく、その主人である直観≒<象>に語り掛けなければならないのだと言います。
言われてみれば、思い当たる節は私の中にもゴロゴロと転がっています。どうにも納得しかねることがあると、まずは あーでもないこうでもないと、言葉を重ねてこれに抵抗して見せずにはおけません。多くの場合、屁理屈というレベルのものに止まるのですが、それでもどうにかして頑張ってみるのです。
ですが、例えそうした抵抗の試みに失敗し、いくら正論を積み重ねられたところで、相手の言い分を快く受け入れるほど、私の心は広くありません。場合によっては、それを根に持って、以後の付き合いに少なからぬ支障を抱え込むことになるのがオチでしょう。
ではどうすれば良いのか? 著者は、<乗り手>ではなく、主人である<象>に語り掛けろ言います。そしてその場合に有効なのが、「社会的な説得」だと。
実を言うと、この「社会的な説得」という部分の記述が薄く、あまりピントはこなかったのですが、取り敢えずは心を開き、いわゆる「情に訴える」とか、「世間の目」を意識させる、とか、日本的に言えばそうした辺りのところを言いたかったのかな、と勝手に補ってみたのでした。
さて、この本にはもう一つのポイントがあります。それは、政治的ないわゆる“左派”と“右派”とで、道徳基盤の比重に違いが見られるというものです。
著者は、モデルとして5つの道徳基盤、<ケア/危害>、<自由/抑圧>、<公正/欺瞞>、<忠誠/背信>、<権威/転覆>、<神聖/堕落>を示しますが、“右派”がこの6ついずれをも基盤としているのに対し、“左派”ははじめの3つ、つまり<ケア/危害>、<自由/抑圧>と<公正/欺瞞>だけだと言います。そして、こうした道徳基盤の違いが互いに了解されない限り、“左派”は、“右派”の主張がなぜ支持されるのか、理解することができないだろうと指摘しています。
<忠誠/背信>、<権威/転覆>、<神聖/堕落>。これらはいずれも、組織の存立には欠かせない道徳基盤であるだけに、いろいろと考えさせられるところです。