見出し画像

小樽・札幌ゲーセン物語展 Web版1「展覧会の目的&年表」

 2021年1月16日から3月28日にかけて小樽文学館にて開催された『小樽・札幌ゲーセン物語展』。ありがたいことに広く注目を集めた展覧会でしたが、コロナ禍の中での開催ということで、来ることが叶わなかったという皆さんの話を多く聞いています。また、広く集めた注目は『小樽・札幌ゲーセン物語展2(仮)』と『ビデオゲームと文学2 同人誌と攻略本展(仮)』といった二つの次回展覧会開催に繋がっています。そういったことから『小樽・札幌ゲーセン物語展』の概要をWeb上で閲覧できる記事を作成することにしました。
 『小樽・札幌ゲーセン物語展』の目的のひとつが当時のゲームセンターやアーケードゲームそのものとそれに伴う文化のアーカイブ化でしたが、展覧会自体のアーカイブ化がこの記事という位置付けになります。
 展示内容を何回かの記事に分けて紹介しますが、本記事では展覧会チラシのほか、会場にて掲示した展覧会の目的とアーケードゲーム年表について触れます。以下、実際に会場で使用したテキストと、会場内の画像になります。


■ チラシ表

ゲーセン展チラシ表

■ チラシ裏

ゲーセン展チラシ裏

■ チラシ表(ボツ案)

※キャッチコピー「あれがボクらの青春だった。」が正式版と異なる

画像3


■展覧会の目的

 70年代にまったく新しいカルチャーとして登場したテレビゲーム、その中心地であったのがゲームセンターでした。80~90年代にかけてゲームの進歩・発達と呼応するようにゲーセンは日本各地に形を変えながら広がっていき、そこで独自のコミュニティとプレイヤー各人にナラティブ(経験から生まれる物語)を発生させるまでに至りました。
 しかし2000年代に入り、家庭用ゲーム機の浸透、さらにはスマホやSNSの隆盛によってゲームをプレイする環境は激変し、全国各地に存在したゲーセンは次々と姿を消していくか、あるいはその形態を変えていきました。当時のゲーセン文化・コミュニティを現代にも何らかの形で残そうという動きは草の根的に取り組まれていますが、おそらく当時の形でのゲーセンは縮小していく運命にあると思われます。そう考えたときにゲーセンとそれを取り巻く文化について後世に残す意義は以前と比べて強まっていると考えます。その一助として博物館の機能を使う試みが、今回の『小樽・札幌ゲーセン物語』になります。


■ アーケードゲーム年表

◎1971年
世界初のアーケードゲーム「コンピュータースペース」(ノーラン・ブッシュネル制作)がアメリカで発売するもビジネス的に成功せず。

◎1972年
「ポン」(アタリ)がアメリカで発売。コンピュータースペースと同じくノーラン・ブッシュネル制作で、こちらは大ヒット。
この頃はまだいわゆるゲームセンターは存在せず、デパートやボウリング場のゲームコーナーにビデオゲームが置かれていた。

◎1976年
「ブレイクアウト」(アタリ)がアメリカで発売され大ヒット。この頃、テーブル筐体が喫茶店などに置かれるようになる。

◎1978年
「スペースインベーダー」(タイトー)が日本で発売。社会的ブームとなる。
当時は子供よりも大人が主な客層だった。
喫茶店以外にゲームセンターが現れ始める。この頃は「不良のたまり場」のイメージがあり、学生がゲームセンターに行くことが禁止されていた。

◎1979年
「ギャラクシアン」(ナムコ)、「平安京エイリアン」(電気音響)発売。
「ゲームセンターあらし」(すがやみつる・作、小学館・刊)連載開始。当時の子供にとってビデオゲームの大きな情報源となる。

◎1980年
「ムーンクレスタ」(日本物産)、「パックマン」(ナムコ)、「クレイジークライマー」(日本物産)発売。

◎1981年
「スクランブル」(コナミ)、「ジャンピューター」(アルファ電子)、「ドンキーコング」(任天堂)、「フロッガー」(コナミ)、「ギャラガ」(ナムコ)発売。
駄菓子屋や玩具屋にミニアップライト筐体が置かれるようになる。

◎1982年
3D視点のレーシングゲーム「ポールポジション」(ナムコ)がリリース。

◎1983年
ゲーム史におけるエポックメイキングなタイトルである「ゼビウス」(ナムコ)が登場。
隠しキャラ、攻略記事、ゲーム同人誌、ゲームミュージック・サントラを生み出すきっかけとなる。「マリオブラザーズ」(任天堂)以降、2人同時プレイ可能なゲームが増えていく。「ハイパーオリンピック」(コナミ)では定規を使ってボタンを連打するプレイヤーが続出。
「マイコンBASICマガジン」(電波新聞社・刊)の別冊付録「スーパーソフトマガジン」刊行開始。ビデオゲームの情報源のひとつとして注目を集める。

◎1984年
全編「隠し要素」で構成された「ドルアーガの塔」(ナムコ)、マップ上のヒントから見つけられる100万点ボーナスのほか様々な隠しボーナスが組み込まれた「スターフォース」(テーカン・現テクモ)などの存在により、攻略情報がプレイヤー間で伝達されるようになっていく。
「マイコンBASICマガジン」で全国のゲームセンターのハイスコアを集計する「チャレンジ!ハイスコア」の連載が開始。
細野晴臣プロデュースにより、当時のナムコ・ゲームミュージックを収録した初のゲームミュージック・サントラ「ビデオ・ゲーム・ミュージック」がアルファレコードより発売。

◎1985年
サウンドにFM音源が使われ始め、表現の幅が広がる。「ハングオン」、「スペースハリアー」(共にセガ)といった体感ゲームが登場。「タイムギャル」(タイトー)はレーザーディスクを使って、アニメーションの中にプレイヤーが介入するゲームシステムとなっていた。
プライズゲーム「UFOキャッチャー」(セガ)が登場。以後、他のメーカーからも様々なプライズゲーム機と多くの景品が出回り、その人気は現在まで続く。

◎1986年
シューティングゲームでありながら買い物要素がある「ファンタジーゾーン」(セガ)、パスワードによるコンティニューが可能でスコアが存在しない「ザ・リターン・オブ・イシター」(ナムコ)などRPG要素が加わったゲームが現れ始める。「ブレイクアウト」をリメイクした「アルカノイド」(タイトー)が登場。ビデオゲーム黎明期のタイトルをリメイクできるほどの年月を重ねるに至った。
アーケードゲーム専門誌「ゲーメスト」(新声社・刊)創刊。全国のハイスコアを集計するコーナー「めざせ!!ハイスコア」も掲載。
アルファレコードがビデオゲーム・ミュージック専門レーベル「G.M.O.レード」を創立。

◎1987年
3画面を結合させた専用筐体を使用した「ダライアス」(タイトー)登場。「R-TYPE」(アイレム)と合わせて、シューティングゲームのブームが始まる。ガンシューティングの始祖「オペレーションウルフ」(タイトー)、最大8人の通信対戦が可能なレースゲーム「ファイナルラップ」(ナムコ)が登場。

◎1988年
落ち物パズルのブームを引き起こした「テトリス」(セガ)が登場。
ポニーキャニオンがサイトロン・レーベルを創立。G.M.O.レーベルから多くのメーカーが移籍した。

◎1989年
「ダライアスII」(タイトー)、「R-TYPE II」(アイレム)、「グラディウスIII」(コナミ)と人気シューティングゲームの続編が立て続けにリリース。ベルトスクロールアクションの名作「ファイナルファイト」(カプコン)が登場。「ウイニングラン」(ナムコ)はポリゴンで描画された3Dレーシングゲームだった。

◎1990年
SNKが家庭用ゲーム機と互換性を持つ「NEO・GEO」の展開を開始。
大型ムービング筐体「R-360」(セガ)が登場。体感ゲームの頂点を極める。

◎1991年
対戦格闘ゲームブームのきっかけとなる「ストリートファイターII」(カプコン)がリリース。だがこの時点ではまだCPU戦が主流だった。「クイズ殿様の野望」(カプコン)をはじめとしたクイズゲームも人気が出る。

◎1992年
「ストリートファイターIIダッシュ」(カプコン)、「餓狼伝説2」(SNK)の登場により対戦格闘ゲームのブームが本格化。それに伴い、アップライト筐体やミディ筐体が増加し、テーブル筐体がゲーセンから消えていく。落ち物パズルに対戦要素を加えた「ぷよぷよ」(セガ)が登場。

◎1993年
「ワールドヒーローズ2」(ADK)、「サムライスピリッツ」(SNK)、「餓狼伝説スペシャル」(SNK)と「NEO・GEO」系の対戦格闘ゲームが数多くリリース。ポリゴンにテクスチャーマッピングを施し表現がよりリアルになった「リッジレーサー」(ナムコ)、史上初の3D表現の人体モデルを使用した対戦格闘ゲーム「バーチャファイター」(セガ)が登場。

◎1994年
「バーチャファイター2」(セガ)が大ブレイクし、3D対戦格闘ゲームのブームが始まる。
全国各地のゲーセンで大会が開かれ、道場破り的な遠征も行なわれた。セガ公認の「鉄人」と呼ばれるプレイヤーたちも登場する。同じく3D格闘ゲーム「鉄拳」(ナムコ)もリリース。カプコン・SNKの2D格闘ゲームも依然人気が高かった。

◎1995年
「ヴァンパイアハンター」(カプコン)、「餓狼伝説3」(SNK)、「ストリートファイターZERO」(カプコン)、「ザ・キング・オブ・ファイターズ'95」(SNK)、「鉄拳2」(ナムコ)、「ファイティングバイパーズ」(セガ)と対戦格闘ゲームの最盛期。
撮影した写真をシールとしてプリントする「プリント倶楽部」(アトラス)1作目が登場。
数年後「プリクラ」の通称で女子中高生の間でブームになる。

◎1996年
「電脳戦機バーチャロン」(セガ)、「ソウルエッジ」(ナムコ)など3Dポリゴンで描画されたゲームが増えてくる。一方、「メタルスラッグ(SNK)は美麗なドット絵による2Dアクションゲームとしてリリースされ、長くシリーズ化される。鉄道運転シミュレーション「電車でGO!」(タイトー)がリリース。
当時の家庭用ゲーム機(プレイステーション、セガサターン)では、80年代のビデオゲームが完全移植されるようになる。

◎1997年
「beatmania」(コナミ)が登場。現在まで続く音楽ゲーム(音ゲー)の歴史が始まる。
「怒首領蜂(どどんばち)」(ケイブ)がリリース、膨大な数の敵弾の合間を当たり判定が小さい自機を操作してすり抜けていく「弾幕系シューティング」の最初のタイトルとなる。

◎1998年
3D描画のゲームが大半を占めてくる。「pop'n music」、「Dance Dance Revolution」(共にコナミ)と音ゲーの新作が多数リリースされる。

◎1999年
競走馬育成シミュレーション「ダービーオーナーズクラブ」(セガ)が稼働開始。業界初となるカードによるゲーム情報保存システムを搭載していた。「ギターフリークス」、「ドラムマニア」(共にコナミ)と音ゲーのバリエーションが増加していく。
新声社の倒産により、ゲーメスト廃刊。

◎2000年以降
カードによるゲームデータ保存システム、ゲーセンどうしをオンラインで繋いだ対戦システム、「甲虫王者ムシキング」(セガ)から始まった児童向けカードゲームなど新しいシステムや客層を取り入れるようになっていく。
2003年からは格闘ゲーム大会「闘劇」が開催。後にプロゲーマーとなる梅原大吾氏らを輩出、現在のeスポーツに繋がっていく。

一方で、当時の家庭用ゲーム機「ドリームキャスト」や「プレイステーション2」とアーケードゲームの性能はほぼ同じとなっており、以前のようなアーケードゲームのスペック上の優位性は失われていた。
その差別化として開発された大型筐体は高額となり、店舗スペースの観点も含めて小規模店舗には負担となっていく。
結果としてゲーセンの数は減少していき、ゲームメーカーの倒産も相次いだ。2003年にマイコンBASICマガジンが休刊。

2010年以降は、従来型のビデオゲームは一部の店舗のレトロゲームコーナーでかろうじて楽しめる状況となってしまった。それでも音ゲーとプライズゲームの人気は衰えず、現在まで続いている。
メダルゲームの人気も高く、メダルゲーム目当ての一部の高齢者にとってゲーセンが居場所となっている。

※Web版 補足
アーケードゲームの年表、実際は「こんなものではない」くらいもっと多岐に渡る内容なのですが、会場の掲示スペースの兼ね合いで上記の形でまとめざるを得ませんでした。展示物の大半が1980~90年代だったため、その時期にフォーカスしつつ、黎明期として外せない70年代にも触れています。一方で2000年以降はひとまとめという形になり、アーカイブという観点からはややバランスを欠いたものになってしまいました。

画像4


■ 小樽・札幌ゲーセン物語展_Web版 バックナンバー
https://note.com/hilow_zero/m/md0bdc74a1814

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?