8/30 波物語

スゲー!波物語は引くとかより先に、凄いと思った。やっぱり自分の想像力を超えるものが現れると、良いか悪いかはともかく凄みがある。

波物語擁護の意見で……これはフジロックのときもあったのだけど「出演者も覚悟を持ってるんだ!」みたいなのを少し見た。ただこれ、本当に出演者がそう言っている/思っているとすれば変だ。当然だが、出演者の方が圧倒的に感染リスクが低いからだ。にも関わらず「俺たちなりの覚悟持ってここに立ってるンで……」みたいなスタンスでイキってるとしたら、どうしてそうなるのか気になる。

ぼくは少し前からもう、あらゆるコロナ対策は粗だらけだから、空気が動くのを待つしかないのでは?みたいな諦めムードになっている。その上で、せめて自分が生き延びようとするなら国や都道府県ではなくもっと小さい単位、自分の市区町村がまともであることに賭けるしかないと。その、空気が動くのを待つ、というのは要するに「ヤバいから家にいよう……」と思うようになるのを待つということだ。

実際そのために呼びかけや注意喚起なんかもやってきたは思うけど(会見での情報発信や、街中を走るウイルスを警告するトラックとかもあったな)、でももっとも空気を動かすのは「有名人が亡くなる」ことなのだと思う。実際、日本で一番空気が引き締まったのは志村けんが亡くなったときだろう。家族か友達、あるいは自分のよく知る有名人が亡くなる他に、もう皆が感染拡大を気にすることはないと思うのだ。しかし、前者による危機感が社会全体に広まるほどの事態というのは、既に感染も絶望的に広がっている状態だろう。かといって、後者はなかなか難しい。最初に言った通り、有名人はそれだけ(少なくとも外部からの)リスク管理はきちんとしているだろうし、どんどん亡くなっていくという事態はあまり考えられない。あったとしても、それは前者と同時に起こるだろう。それに、そもそも僕の前提が間違っていて、たとえば今回波物語の出演者の方が亡くなったとしても特にその方が影響をもつ層の行動変容なんて、大して起こらないのかもしれない。

現状、今外に出ている人間には、本当は出たくない人間と特に気にしない人間がいる。共に同じリスクを背負ってはいるが、理不尽だと言っていい。

もしかしたら、前者のなかには「本当は会食などしたくない人」なんてのもいるかもしれない。しかし「本当は外に出たくないし会食もしたくないのに、仕事に行かなければならず会食もしなければならない状況下に置かれている」人がコロナに感染して亡くなり、その人を誘った毎日飲み歩いて波物語とか行ってるやつはコロナが収束するまでそんな生活を続け、その後も一生を送るということもある。理不尽なことだけど、そんなケースはこれからどんどん増えていくだろう。

であればもう、死生観を変えていくしかないのかもしれないという暗い気持ちになってくる。死亡率の低下や長寿の傾向が称揚され、誇りでもあった日本社会では難しいかもしれないが、「人が亡くなること」というかコロナ禍においては「自分のせいで人が亡くなること」を許容する社会への転換。

だから、フェスに参加したり、集まって会食したり、そういうことをするのはもう良いのかもしれない。だけどそれなら「これが原因で他人や家族や友人が亡くなっても良いですよね」と言われて「はい」と即答できるようにしてほしい。そうやって、「死のリスク上昇を許容する社会」に転換していくのが良いのかもしれない、と思ってしまう。

ただ、これは「思ってしまう」に留めなければいけない。「そうあるべきだ」になってはいけない。

なぜならこの発想は「そう思うことで、自分の置かれている状況を落ち着いて受け止める」ために必要なものだからだ。刻一刻と悪くなっていく状況を、真正面から受け止めるというのは普通の人間には難しい。だから、一度「これも悪いことではないかもしれない」という発想を一度クッションとして置いたうえで、「いや、そうかもしれないけどやっぱりダメだ」と考え直すという作業が役立つ。こういったクッションの設置は、疲れて安直な結論になってしまったりしないようにする工夫の1つかな、とぼくは思っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?