1/4 年始② 表現と責任
インターネットでは、表現の自由をめぐって常に争いが起きています。2022年のインターネット表自大戦は『劇場版 SHIROBAKO』から始まりました。その論争の中心にいたのは医師・作家と二足の草鞋を履きながら、Twitterで盛んなレスバトルを繰り広げる知念実希人であり、彼が今回レスバを仕掛けたのは映画評論家の小野寺系です。
別に今回は直接その論争の是非を問うことはしません。が、それを眺めていてちょっと思ったことを書いていきます。
批評について
去年の12月。書評家の豊崎由美が、Tiktokで若者向けに本の紹介をしている「けんご」という人を「こいつ色々本とか紹介してるけど、書評とかちゃんと出来るんすかね(笑)」的な感じで揶揄したことから軽く炎上した騒動がありました。その際ちょくちょく見かけたのが「そもそも、批評とかって要るの?」みたいな意見です。
実際、国語の授業で批評をきちんと扱ったりすることはあまりないですし、なぜ批評が必要かわからないというのは全うな意見です。批評の文体というのは、言葉遣いも偉そうでムカつきますし。
では、なぜ批評が必要なのかというと「創作者は自分がなにを創っているのか大してよくわかっていないことは大いにあり得る」からではないかと思います。
……ところで、インターネットでミームになっているこんな漫画のコマをご存知でしょうか。
ミームとしては「深読みのしすぎ」を揶揄するために使われたりなどするこちらのコマですが、これをTwitterのリプ欄に貼ったりする人には「作品は作者がコントロールできるもの」という思い込みがある気がします。
しかし、もちろんそんなことはありません。「創作者は考えていないが、創作物が持っているもの」というのが確かにあります。創作者は自分の創作物の持つ意味をほんの一部しか知らないからです。「脚本の人がそこまで考えていない」ことだからといって、それが創作物と無関係ということにはならないわけです。
また、インターネットにはこんなミームもあります。
147 名無し :2018/12/03 ID:0du ×
トトロのサツキとメイの死亡説はガチやと思う
母親のセリフやら親父のトトロ見ても無反応なのとか明らかに不自然やし
148 名無し :2018/12/03 ID:oTQ ×
>>147
ジブリが否定しとるで
150 名無し :2018/12/03 ID:0du ×
>>148
そんなの公式が勝手に言ってるだけやん
「そんなの公式が勝手に言ってるだけやん」。
ネタ扱いされることの多いこの発言ですが、これは全くズレた発言ではないはずです。僕も公式や原作者の見解が自分のものと違えば「そんなの公式が勝手に言ってるだけやん」と思います。そんなものは絶対的ではないし、言ってしまえば公式や原作者というのは「ただオリジナルを創っただけのやつ」なのですから、彼らの見解に「間違い」を見つけることは可能なのです。そしてその間違いを指摘するのは、やっぱり「批評」だったりするわけで……批評の価値はそういうところにあるはずだ、と思ったりしています。ですので、「批評」の大きな役割として一つ「創作物に関して、創作者自身が知らないことを書く」というのがあるように思います。
こんなツイートがバズっていましたが、評論や批評は「面白いか面白くないか」を評価するものではないです。レビューサイトじゃないんだから。かといって「正しいか正しくないか」を評価するものでもありません。もちろん、その基準で評価するというスタンスの評者はいるでしょうが、それは別に「評論」や「批評」というものが常に持っている性質ではないのです。
……話を一番初めに戻しましょう。
創作者のスタンスについて
知念実希人と小野寺系のレスバとその周辺の議論は、その他大勢によるRTやリプライの連なりが加速するに伴い、「創作者は作品が社会にどんな影響を与えるか考えるべきだ」vs「創作者は読者に満足してもらうことさえ考えればいい」という単純な対立軸で進んでいったように見えます。ここからは、僕がこれをなんとなく追いながら思ったことを書いていきます。
まず、当たり前ですがそもそも二つは対立しません。「読者を楽しませることだけを目的に創作したもの」が「読者を楽しませる」力しか持たないということはあり得ないので。もしそう思っているならヤバいです。先述した通り、創作物は創作者のコントロールできない力を容易に持ち得るからです。なので、前者がいう「社会への影響」は確実に存在するでしょう。では、それについて常に考え、然るべき配慮をするべきなのでしょうか?
僕は「べき」とは思いません。個人的にはした方が良いと思いますが。ただし「私は読者を楽しませるためだけに創作をする!それが出来るか否か、それ以外は考えない!」というスタンスでも、別に構わないでしょう。しかし、繰り返すようですが「自分は楽しませるためだけに創作をしたのだから、それ以外の影響力なんて大してない!」と考えているのなら、それは「ウチの子は良い子に育てたんだから誰かを傷つけるなんてありえません!」という親バカの態度と同じです。それは良くない。
子供も作品も、自分の手元を離れて意図しないことにばかり巻き込まれるし、自分はそれをある程度しかコントロールできません。どこかで誰かに迷惑をかけたり、傷つける可能性もある。それを防ぐために、創作者はどこまで作品に「躾け」をするべきなのでしょうか?
躾けを徹底するまでは家から出さない、というのは虐待ですが、家の外で誰に迷惑かけようがどうでも良いぜ~という行き過ぎた放任主義もネグレクトになるでしょう。どこまでやるかの見極めと調整が必要です。しかし、最近はこういった「どこまで」を考えるような、曖昧な落としどころを見つけるための議論は忌避され、賛成か反対か「どちらか」の立場に与し、敵対する側を完全に沈黙させることが目的の殲滅戦になりがちなので難しいかもしれません。言わずもがな、今回話題にしているようなインターネットにおける表現の自由についての論争は特に、です。そこでは双方が「絶対普遍の正しさ」を信じ、それに関して相対主義を許さない、というスタンスが取られています。
2010~2020年代にかけては、近代的な「社会はある一定の基準のもとに一定の方向に進歩していくものであり、それに伴って産業や文化も発展させていくべき」という進歩主義的な考え方が再び主流になっていきました。流行の言葉を使って「Z世代的正しさ」と言い換えても良いかもしれません。ベタなのであまり言いたくありませんが、思想とかが好きな人には「大きな物語の復活」と言うと、なんとなく伝わりやすいでしょう。
なので「いや、絶対的に正しいものとかなくないっすか(笑)」みたいな態度は反時代的と言えます。例を言えば、先述した「いや、そんなの公式が勝手に言ってるじゃないっすか(笑)」というのもその一つでしょう。僕はそういう人なので、困ったなぁと思っています。
そもそも、個人的に表現の自由というのは国家vs市民という枠組みで争われるべきものだと思っているのですが、現状は明らかにそうなっていません。市民vs市民の論争が行われ、政党や企業はそれを眺めている。そうして彼らは市民をそれぞれ「支持者」あるいは「消費者(と労働者)」として回収するためにアピールしてくる、そんな現状です。そっちもなんだかなぁと思うので、今年は何か変化があれば良いなと思っています。
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