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serial❹ 東洋運勢学のベース「干支暦」(かんしれき)について

前回は「暦の変遷」について述べましたが、今回は四柱推命や九星気学など、東洋運勢学のベースになっている「干支暦」について、お話させていただきます。

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干支暦は「十干」と「十二支」をセットにした、六十干支で表記された暦です。干支暦が日本に渡来したのは西暦553年ごろ(欽明天皇の時代)だと、日本書紀に記されていますが、占いの書「奇門遁甲」(きもんとんこう)が渡来したのは、飛鳥時代の女帝・推古10年(602)でした。

占いの書だけでなく、天文・地理などの自然科学、羊や猫などの動物も入ってきました。日本ではじめて干支暦が採用されたのは西暦604年で、「甲子・一白水星」の年と定められました。

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日本の初代天皇・神武天皇が即位したのは、紀元前660年(辛酉)1月1日だったのを、グレゴリオ暦に換算して2月11日となったのが、現在の建国記念日です。

干支暦で可能になった正史の刊行

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干支暦を手に入れた約100年後の712年に、「古事記」が編纂されて、その8年後に日本の正式な歴史書「日本書紀」が出版されました。日本書紀と同時代に登場したのが、占い師の先達「陰陽師」(おんみょうじ)です。

劇画や映画、小説でも描かれている安倍晴明(あべのせいめい)は、平安時代に実在した陰陽師ですが、天武天皇の肝いりで「陰陽寮」が設けられたのも、古事記の編纂と時期を同じにしています。

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寮とは現代で言えば、省や庁の国家機関にあたります。暦や天文をあつかう陰陽師は「陰陽博士」と呼ばれていましたが、現代に当てはめれば専門職のテクノクラートで、れっきとした国家公務員だったのです。

陰陽寮は明治新政府ができるまで続いた、天皇直轄の国家機関で、今の宮内庁や国土地理院、気象庁まで包含した組織になります。干支暦は太陽と月の満ち欠けを折衷した「太陰太陽暦」ですが、明治の改暦(1873)で、世界の主流となっていた「グレゴリオ暦」と入れ替わりました。

グレゴリオ暦より精緻な「天保暦」

江戸幕府はフランス人天文学者を雇い入れて、日本最初の反射望遠鏡を開発して、日本各地に設けた天文台(主に城の天守閣)で天体観測を続けた結果、グレゴリオ暦より精緻な暦を完成させていたのです。

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江戸時代には「天保暦」と呼ばれた、太陰太陽暦ですが、いまでも「旧暦」として親しまれています。わたしたち占い師は、立春を元日にした「旧暦」を用いていますが、旧暦と新暦の間には、約1か月のタイムラグがありますから、新暦では季節のめぐりが馴染まないのも当然なのです。

スローライフを楽しむのなら旧暦

季節の循環にフィットした、スローライフを楽しむなら旧暦がいいと言われるゆえんです。7月7日の「七夕まつり」も、新暦では梅雨のさなかで、天の川も雨で煙って見えません。有名な仙台の七夕祭りは旧暦の8月に行いますから、天の川もクッキリ見ることができるのです。

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古代の中国人は、高さ2メートル足らずの棒を立てた、原始的な日時計だけで「二至二分四立二十四節気」の暦を作り上げたのです。二至は冬至と夏至、二分は春分と秋分、四立は立春、立夏、立秋、立冬で、この間に約2週間の土用が配当されています。

正確には春夏秋冬の四季ではなく、土曜も含めた五季(ファイブシーズン)になるのです。江戸時代には、二十四節気をさらに三等分した「七十二候」が生まれました。干支暦は十干と十二支を組み合わせた、最大公約数60進法の世界になります。

木星の公転周期から生まれた十二支

十二支は動物ではなく、人類に幸福をもたらすと信じられていた、ジュピーター(木星)の公転周期、12年からとった数詞です。中国の文献にはじめて動物の十二支が登場したのは、キリスト誕生後の後漢の時代でした。

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抽象的な数詞から、当時の人たちにもなじみの深かった動物を選んだのです。動物の十二支が日本に伝わったのは6世紀半ばで、江戸時代には民衆の間にしっかり浸透し、現在に至っています。

今年(2021)の立春以降に誕生した赤ちゃんの「エト」は、ウシとされていますが、エト(干支)は十干の干と、十二支の支がセットになっていますから、2021年の十干、辛(かのと)と丑をくみあわせた、「辛丑」が正しい干支(エト)になります。

丙午年に赤ちゃんの誕生が敬遠されるわけ

干支暦に興味のない方でも、自分の子どもの誕生となるとこだわる干支があります。丙午(ひのえうま)年です。江戸時代に井原西鶴が書いた「好色一代女」で有名になった、「八百屋お七」の物語はご存じでしょうか。

「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど、江戸時代には大きな火災が相次いだのですが、お七も火災で焼け出された実在の娘でした。お七は親と一緒に寺に避難するのですが、そこで出会った寺小姓と恋に落ちたのです。

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避難生活が終えてもとの生活に戻ったあとも、お七の恋ごころは燃え盛るばかりで、もう一度火災があれば、彼のいる寺で暮らすことができると思いつめ、実家に火をつけたのです。

幸い火は小火(ボヤ)で消し止められましたが、お七は放火の罪で捕らえられて、鈴ヶ森の処刑場で火あぶりの刑に処せられました。まだ16歳の少女でした。

次に丙午が巡るのは2026年

お七が生まれた年の干支が「丙午」だったっことから、「丙午生まれの女性は気性が激しく、夫の命を縮める」という迷信が定着したのです。明治以降もこの迷信は続いて、明治39年(1906)の丙午年には、前年より出生率が4%減少しました。

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昭和になっても依然根強く、昭和41年(1966)の出生率は、高度経済成長の好況にもかかわらず、前年より25%も下がりました。次に丙午年が巡ってくるのは5年後の2026年ですが、ただでさえ少子高齢化で国力の衰退が心配されているときですから、迷信を吹き飛ばして欲しいと願ってやみません。


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