言葉は大事。だけどそれだけじゃない気もする。けどやっぱり、言葉は大事。
言葉って大事だよな、っていうnote。
岸田首相が爆破される危機にあったらしいです。
安部元首相が銃撃された件と言い、今回の件と言い、そして「言葉の信頼度の低下」という記事が出てくると言い、「言葉」「ことば」「コトバ」の意味が問われている社会なのかなって気がする。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/321519
この前、知り合いと「暴力に訴えるしかやり方がなかった人たち」を考えるべきじゃないか、という話をした。
前述の記事でも、「言葉に信頼が置けなくなっている」という主張がされている。twitterでの、サイボウズの青野社長と自民党の武井衆議院議委員の応酬もそうだと思う。
義務教育で国語を学ぶけど、どのくらいの人が、どのくらいの「言葉」を駆使して、そしてその「言葉」を、社会がどのくらい受け取ることができているのだろうか。そして「言葉」の意味やその有効性、他者との意思疎通での道具としての役割について、どのくらい「信頼」しているのだろうか。
子ども食堂のお手伝いをしててもそう。助成金や補助金を申請するための「作文」をするのもそうだし、行政に支援を求める時もそう。
誰かが自らの生活もしくは誰かの“大変さ”や“困窮さ”を「言葉」で訴えたとしても、それを「戯言」として吐き捨てている人がどのくらいいるのか、権力者が自分の権威のために捨て去る人がどれだけいるのか。今の社会で、誰かの“心の叫び”のような「言葉」を受け止めて改善の努力しようする、権力を持っている人たちがどのくらいいるのか。
これまでの人類社会が積み重ねてきたあらゆるものの結果としての「法の支配」において、権力、立法・行政・司法が、健全な社会のためにその権力を行使する個人ってどのくらいいるのかな。「誰1人取り残さない」と言っているSDGsを持て囃してる社会で、底が抜けているという事実を認めている権力者がどのくらいいるのかな。
「暴力は民主主義への反発である」であるという字面は確かに正しそうだけど、その正しさは字面でしかなく、その背景や、その暴力が生まれるまでの経緯にまで目を向けることがどのくらいできているのかな。「丁寧な説明に努める」と言っている政治家たちに失望して、言葉では伝わらないということに絶望して、言葉ではない暴力の行使に走らざるを得ない人たちの“訴え”や“主体性”を真正面から受け止められる人たちってどのくらいいるのかな。
少なくとも俺は考えたいなって、知り合いと話してて思った。現代での表現方法として「言葉」は、きっとまだ万能じゃない。
もちろん、言葉が通じないからって暴力に走ることが最善ではないのはそうだと思う。けど、けど、、けど誰かが、内に秘めているその感情を表出させる時、させたい時、せざるを得ない時、今の社会や教育では、「言葉」で表す/顕すことしか習ってないし、推奨されない方法としての「暴力」しか知らない。
歴史的には芸術的な表現方法がそれを担ってきた経緯があったかもしれないけど、感情を、筆や色・造形・音に込める手法を知らないし、むしろ敬遠されるような風潮さえある気がする。現代社会で認められているであろう「個人」を形作るものとしての表現方法は、きっとあるはずだし、あるべきだと思うし、人類社会としてそうあるべきだと思う。
でもやっぱり、「言葉」は人類の叡智だとも思う。辞書を引けば意味は一意に定まるし、適切に使えば過不足ない交流ができる道具だと思う。個人としての人格を保証しているであろう現代において、自分とは別の人格である他者と適切に交流する際の「言葉」は、あらゆる面で最適な道具だと思う。全くの自然環境で生き抜くにはひ弱すぎる人類が、種を保存するために獲得した社会性という強みを最大限に活かせるのは「言葉」だと思う。
奴隷制や封建制の中で勝ち取ってきた自由権や社会権、そして現代社会において権力者に対する民主主義的で正当な意思疎通の道具であるはずの「言葉」が、これほどまでに意味をなさないのは、なんだろう、こう、なんと言うか、やばい気がする。
「ヤバい」とか「エモい」とか「うっせぇわ」とか、一見短絡で精細さの欠けたような単語が溢れる現代でも、その単語が使われている時代背景や経緯、文脈から、他者の意図を汲み取ることも可能だと思う。
その反面、「忖度」という言葉もある。文化の壁を超えて翻訳しようとすると簡単ではない、複雑な言葉もある。そのくらい、「言葉」って難しくて扱いにくい道具なのかもしれない。
でも、その「言葉の扱いにくさ」は、言葉という存在自体が持つ課題ではなく、人類社会側の課題だよな。意思を発する側も、受け取る側も、その個人を育む社会も、あらゆる表現方法の中での「言葉」をどうやって使っていくのか、それを考えないといけないのかな。
「人は生まれながらにして平等であり、誰もが幸せを追求する権利がある」というフィアデルフィアの精神や自由民権運動の根幹は、今の社会では貫かれていないのかな。
言葉を駆使して訴えている人たちや、少数派が意見をいくら言ったとしても受け入れてくれない多数派もたくさんいるような現代社会で、それでもよりより社会のために、非暴力で不服従な「言葉」は、信頼に値する気がする。発すれば、誰かには何かが伝わる可能性があるし、書けば後世まで残る可能性のある「言葉」は信頼して良い気がするし、信頼したいし、信頼せざるを得ない。暴力の裏側を解明する可能性のあるものは「言葉」だけだと思うし、誰かを諭すことができるのは「言葉」だけだと思うし、あらゆる表現方法を適切に表現できるのは「言葉」だと思う。暴力でしか訴えざるを得なかった人たちを社会的に掬い上げられるのは、「言葉」だけだと思う。暴力が溢れる社会でも、言葉に寄り添っていきたいし、言葉に寄り添ってほしいと思う。
今日の日本社会に戻って訴えるとすれば、言葉を交わすはずの議論が、その言葉を代弁する代議士が信頼されていないのであれば、民主主義・間接的民主主義は多分成り立たないよな。
言葉は大事。
統一地方選の期間中の酔っ払いの眠れない夜中の戯言か。
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