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人類の活動の痕跡が地球全体に広がった時代における搾取

 最近話題の『人新世の「資本論」(斎藤幸平 著)』を俺なりに読んでみた。そんなnoteの第1回。全部で4回くらい続く予定です。たぶん。

人新世とは

 地質学では、小惑星の衝突や火山の大噴火などによって地表の環境が大きく変化し、それが地層として堆積していった痕跡をもとに年代を定めています。この、地表の環境が大きく変化する、という要因に、人間たちの活動の痕跡が挙げられ、地球の全体に広がった時代が「人新世(ひとしんせい/じんしんせい)」と名付けられています。学術的にも採用されてきているらしいです。
 その最たるものが地球温暖化であり、気候危機(Climate crisis)であるとされています。

マルクスのエコロジー

 マルクスが1867年に資本論第1部を刊行した後、第2部・第3部の筆が進まなかったことは有名。その第2部と第3部は、マルクスの死後に盟友エンゲルスが遺稿をもとにして書き上げたのも有名。
 じゃぁなぜ、マルクスは第2部と第3部を書き上げられなかったのか。斎藤幸平が言うには、マルクスは第1部を刊行した後に研究の方向性が変わったらしい。それがエコロジー研究であり、農業を始めとした地球環境との物質代謝の研究らしい。『人間は絶えず自然に働きかけ、さまざまなものを生産し、消費し、廃棄しながら、この惑星上での生を営んでいる。この自然との循環的な相互作用を、マルクスは「人間と自然の物質代謝」と呼んだ。』(P.156)
 このエコロジー研究が、これまでの考え方、つまりは生産力至上主義やヨーロッパ中心主義と相容れないため、筆が進まなかったのではないかって書いてある。

 生産力至上主義とは、資本主義による生産能力の向上により社会が物質的に豊かになって全人類が幸せになる、的な?
 でも工業的な生産力の向上は、時として自然的な循環過程を超えることもある。それはつまり、人類による自然の搾取であり、それが行き過ぎると、この地球上では生きていけないのではないか。と考えていたのではないか、ということらしい。
 ヨーロッパ中心主義とは、社会・経済が発展しているヨーロッパは、他国・他の地域よりも進んだ文明であり、すべての社会は生産力の向上を通してヨーロッパと同じ道を歩むべきなのである、的な?
 でも生産力の向上と地球の自然循環が相容れないことは上記の通り。であるならば、ヨーロッパを最前線とした単線的な歴史観(本書では進歩史観とも)や社会発展は間違っていることになるのではないか。と考えていたのではないか、ということらしい。

共同体への高い評価

 エコロジー研究と同時に、マルクスは共同体研究に熱心に取り組んでいたらしい。ここでの共同体とは、非西欧・前資本主義的な共同体のこと。
 本書の中で挙げられている共同体の一つが、ゲルマン民族の「マルク共同体」。ゲルマン民族は土地を共同で管理し、生産方法にも強い規制をかけ、持続可能な農業を営んでいたらしく、長期的には地力の上昇さえももたらしていたというのである。さらにゲルマン民族は、誰がどこの土地で耕作するのかということもくじ引きで決めていたらしい。エコロジーの観点を持ったマルクスはこれを高く評価していたらしく、この共同体に、「社会主義的傾向」という社会的な平等の一側面を見ていたのではないか、ということらしい。ここで重要なことは、土壌から養分を取り去って、収穫した穀物を大都市で販売して儲けを出そうとする資本主義的農業経営とは、全く対照的なこと。

 最晩年のマルクスがロシア人のザスリーチに宛てた手紙から読みとれる、マルクスの認識は次のようなもの。『資本主義のもとでの生産力の上昇は、人類の解放をもたらすとは限らない。それどころか、生命の根源的な条件である自然との物質代謝を撹乱し、亀裂を生む。資本主義がもたらすものは、コミュニズムに向けた進歩ではない。むしろ、社会の繁栄にとって不可欠な「自然の生命力」を資本主義は破壊する。』(P.186)

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資本主義は地球の限界を超えてでも成長しようとする

 資本主義は労働者から搾取した剰余価値によって成長していくというのは、マルクスが言った通り。しかし晩年のマルクスは、収奪の対象が労働者だけでなく、地球という自然にまで及ぶであろうというのである。
 大航海時代という資源や需要を海の向こうに求めてきた時代を経て、奴隷制や封建制という階級間の差別の時代を経て、経済活動の負の側面を外部化させてきた時代を経て、ついには、人類の活動の痕跡が地球全体にまで及んで気候危機という人類共通の危機を前にしても、資本は成長を続ける。なぜなら、利潤の追求も市場拡大も、労働者と自然からの収奪も、外部化も転嫁も、資本主義の本質だからである。その負の側面が、環境問題などの「修復不可能な亀裂」として析出し続けている。化石燃料は掘り尽くして地上の二酸化炭素は増加し続け、森林の火災は大規模化し、台風は強大になり、ゲリラ豪雨は多発し、人々の生活圏が脅かされている。海にはマイクロプラスチックが溢れ、生態系は乱れ、漁獲量は減少し、作物の生育条件は変動し続ける。既存のインフラでは対応できず、被害は甚大化し、人々の生命と財産が毀損され続けている。
 「非常識」ということが常識となってきている。
 しかし、その本質は人新生においても変わらず、惨事便乗型資本主義として利潤を追求して、外部化を押し付けてくる。そして、資本による外部化と収奪を静観・相乗りし続けていれば、残るのは1%の人々だけである。

欠乏を生む資本主義

 ニューヨークやロンドン、もちろん東京の多くでも、小さなアパートの一室が、「住む」という使用価値ではなく、投機の対象として取引され、その不動産価格は数億円になっている。その反面で、家賃を払えない人々は、家を追い出されてホームレスと化していく。
 『「本源的蓄積」とは、資本が「コモン」を解体し、人口的希少性を増大させていく過程のことを指す。』(P.235)
 地球そのものをも食い尽くす資本主義は、自ら希少性を作り出し、その希少性に価値を与え、自らの資本の増殖の糧とする。本来的に、万人の使用価値であったあらゆるものは、資本の論理に絡めとられていく。その資本の自己増殖の連環の外にあるものは、欠乏を与えられ、搾取され続ける。
 実生活においても、「経済成長」を追い求めても俺らの生活は豊にならない。「失われた30年」といわれる世代を生きている。むしろ、俺らはそういう時代しか知らない。資本主義は俺らに豊かさを与えない。

「脱成長コミュニズム」という到達点

 斎藤幸平は、資本主義が生み出した修復不可能な亀裂が蔓延る人新生においても、マルクスの知恵は応答してくれるであろう、と言う。
資本主義による搾取を是正し、共同体から定常型経済の原理を取り入れたものが、「脱成長コミュニズム」なのである。もちろん、ノスタルジックに「農村に帰れ」とか「コミューンを作れ」とかではない。また、ソ連が目指したような、生産力向上の先にある共産主義でもない。同様に、強権的でファシズム的な取り組みでもなく、さらに、毛沢東的な画一的な押し付けでもない。トップダウン的で政治的な期待でもない。ライフスタイルの変革ですらない。
 「脱成長」は、停滞や衰退ではない。成長というリニアな価値観からの脱却である。「経済は成長するものである」という単線的な認識があるから、脱成長と聞くと、停滞や衰退などの嫌悪感を抱くのである。目指すのは、経済成長ではなく定常型経済である。
 ここで重要なのは、労働と生産の変革なのである。消費行動を支えている生産にこそ、変革の種があるのである。政治的に閉塞感を感じる現代だからこそ、目の前の労働と生産の現場から、資本主義・気候危機に対抗していこう、と言う。

脱成長コミュニズムの要点

 マルクスのエコロジーを読み解いた斎藤幸平が掲げる脱成長コミュニズムの要点は、以下の5つである。


①使用価値経済への転換
 資本主義における利潤の獲得は、「売れる」ことである。つまり、「使用価値」や商品の質、環境負荷はどうでもいい。売れさえすれば、その商品が捨てられてもいい。それが大量生産・大量消費・大量廃棄の社会を形成する。しかし、気候危機の時代においては、目の前の危機に対して有用な「使用価値」に目を向けなければならない。人類の生活において、本質的に必要なものの生産への切り替える必要がある。


②労働時間の短縮
 使用価値経済への転換は、金儲けのためだけの意味のない仕事の大幅に減らすことができる。オートメーション化された現在の経済であるならば、人間の賃金奴隷の状態から解放される可能性があるはずである。


③画一的な分業の廃止
 現代の生産現場は、生産効率だけを追求し、労働の単調化に拍車をかけ、徹底したマニュアル化が労働者の自律性を剥奪している。このような労働時間のうちにおいても、その苦痛、無意味さをなくし、労働をより想像的で自己実現の活動に変えていくことが重要である。労働者の自律性を剥奪する画一的で単調な分業体制に対抗し、労働を魅力的なものにし、人々が多種多様な労働に従事できる生産現場の設計が望ましいのである。そのヒントが、マルクスの言う『「精神労働と肉体労働の対立」や「都市と農村の対立」の克服』である。


④生産過程の民主化
 労働と生産の場という生産過程を変えていくためには、労働者たちが生産における意思決定権を握る必要がある。これは、一部の大株主の意向が、優先的に反映される現在の企業の意思決定プロセスとは大きく異なる。生産過程が民主化され、資本の専制や市場の強制から解放されることで、各人の能力が十分に発揮されるようになり、新しいイノベーションによって、効率化や生産力の上昇が起きる可能性も十分にある。


⑤エッセンシャル・ワークの重視
 一般的に、機械化やAI化が困難で人間の労働が必要なことを、「労働集約型産業」と呼ぶ。ケア労働が最たるもので、ケアやコミュニケーションが重視される領域では、画一化やマニュアル化を徹底しようとしても、求められる作業は複雑で多岐にわたるため、イレギュラーな要素が常に発生してしまう。このイレギュラーには、機械やAIは対処できないのである。これこそが、ケア労働に見られる「使用価値」である。マニュアルに沿った作業だけでなく、相手の性格やバックグランドに合わせて柔軟に、かつ感情を必要とする労働こそ、重視されるべきなのである。決して、ブルシット・ジョブが経済を回しているのではない。エッセンシャル・ワークこそが、社会を形成しているのである。

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