藤井王将-羽生九段の王将戦の将棋史における意義

今回のシリーズが将棋史上究極のタイトル戦であるとおもう理由
将棋の大名人の系譜は
木村-大山-中原-羽生

となり

大体20-25年ごとにとんでもない大名人が生まれてきた

ところが羽生世代が強すぎたためか次の渡辺世代が渡辺一人しかそれに対抗できず、次の豊島・広瀬の世代もここ数年で羽生世代の衰えとともにやっとここ数年でタイトルを取るようになったという状況だった


そこに現れたのが羽生以来30年以上ぶりのチートキャラ藤井で、しかも過去のどの大名人よりも強いと感じさせるとんでもない怪物だった


木村-大山はもちろん、だいぶ年齢がはなれていた大山-中原も何度もタイトル戦が行われている、

しかし中原-羽生のタイトル戦は行われなかった


大山名人は20歳以上年齢のはなれた中原十段とのタイトル戦は闘志がわかなかったといっている、中原十段も羽生九段と同世代の屋敷九段との対戦は闘志がわかなかったと言っている


大山-中原、中原-羽生は25歳位の年齢差だが、羽生-藤井は30歳以上の年齢差がある。では羽生九段の闘志はどうか?

もう四半世紀も前の本だが「羽生 21世紀の将棋」と言う本があり、その本にはすごいことが書いてある。要約するのも難しいが、「棋士は将棋を指しているのではなく逆で将棋に指されている。」
将棋の棋譜はすでに存在しそれを再現しているとでもいうのだろうか?ゆえに次の一手はそれまでの将棋の流れから自然にきまる。
そこに「相手に対する」闘志や執着などは入る余地がない。

では藤井王将はどうか?これはおそらくAIにちかい。または加藤九段と同じような感覚で、「盤上次の最善の一手を追求する」というのが藤井王将の真骨頂なのだろうと思う。おそらくその次の一手に対する闘志と言うか執着は相手がどうとかではなく尋常ではないレベルのものなのだろう。
谷川名人は光速流といわれ、全盛期当時の終盤の切れ味は追従を許すものだはなくAI(というか柿木将棋のような即詰みを発見するソフト)がなかった時代、誰の眼にも詰まないような将棋を詰ませてしまったりもした。藤井王将も同等の力を持っているが、必ずしも即詰みにこだわることもなくとにかく盤上最善の一手を追求している。即詰みに打ち取る必要がないときは必死をかけている。


というようなわけで僕がこの王将戦は大山-中原以来の世代間大名人のタイトル戦であり、二人の相手への闘志などの入る余地のない究極の勝負と思うわけである。


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