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はたらく、をファンタジーから取り戻すために

さみいさみいと言って温め直したカフェオレを飲みながらnoteを眺めていると、パナソニック主催の「はたらくってなんだろう」というコンテストが目に止まった。
え、と思わず二度見した。

だって全部、ひらがなだったから。

「働くって何だろう」と「はたらくってなんだろう」との間には、震えあがるほど巨大なみぞがある。
マイナスイメージな漢字のそれには今現在、とんでもない恐怖と憂うつがセットになっていて、もはや「働く」のほうは直視したら石になるかもしれないメデューサ級の「のしかかりワード」となっている。

ストレスフルでもう逃げ出したくて
忙しすぎて苦しくて辛い。
許されるのなら明日にでもやめたい。
自分の志とは相反するなにかを強いられる
大変でめんどうなもの。
一律の義務であり、自由なこころの死を意味する、それが「働く」ということ。

これが「ひらがな」でやさしくソフトに、いかにも無垢なまっしろのテイストで提示されているという時点で、コンテストで受賞する文章には「明るいみらい」や「きらめく楽しみ」といった、いわゆる「働く」の絶望感や、闇の深さを見て見ぬふりしたライトでポップな要素が求められているにちがいない。

あああああ却下だ。むりむり。
そんな取ってつけたようなインスタントな明るさやきらめきは、結局、だれの胸も打たずに軽い手拍子をひびかせて終わる。
簡易的なふむふむには、人生観をアップデートさせてくれるほどのパワーなど決して含まれてはいないのだ。

現実を見渡してみなさいよアナタ。
どれだけ多くの人が「働く」に人生を、時間を、健康を、あたりまえに幸福なひとときを、そして命までをも奪われているか。
その現実が、閉口するほどに切羽詰まったものだから「はたらく」とポップに平たく表記するよりほかはない、そんな状況まで無意識のうちに追いつめられているのだ。
とっくに限界がきちゃっている。現代社会を生きるわたしたちの「働く」には。

冒頭から、暗黒界の大魔王が書いたみたいな文章になってしまったけれど、ところでわたしは「働く」ではなく「はたらく」のニュアンス、そのテンションのままで人生の運動場を駆けまわっているにんげんだ。

「はたらく」がすでに板についてしまっている、無名なシンガーソングライター。
そう、コロナ禍において無職になったかの有名な職種「ミュージシャン」で、どれだけ死に物狂いでがんばっていても一人前のおとなとしてはあまり認められないジャンルの社会人である。

わたしの仕事は「うたうこと」だ。
曲をつくってそれをちょこちょこ販売したり、カフェや古民家で生の音楽を届けたり、船の上でドレスを着てピアノ弾き語りをしたり、子どもたちへの音楽療育に携わったり、オーケストラと舞台に立ったりしながら「はたらく」を軸にして楽しくおもしろおかしく生きてきた。

もうすぐ35歳なので「いい年していつまでそんなことやってんの?」「いつになったら就職するの?」「今は良くても年取ったら困るわよ」なんて「働く」人々から笑われることも多々ある。
あなたの「はたらく」は世間では浮いてて甘いですよ、とでも言わんばかりに。

「働く」の反義語はなんだろう。「遊ぶ・休む」にあたるだろうか。
わたしにとっては「遊ぶ」ではなく「あそぶ」のほうが、そして「休む」ではなく「やすむ」のほうがしっくりくるし、そういう意味で「はたらく」と「あそぶ」と「やすむ」の3つは、おおげさではなく完全なる同義語だ。

ステージで歌う時のわたしは
あそびながらやすみながら、はたらいている。
部屋で曲を書いている時のわたしは
はたらきながらやすみながら、あそんでいる。
ごはんを食べる時や散歩する時や
お風呂に入る時のわたしも
あそびながらはたらきながら、やすんでいる。

全てが同時進行していて、感じたことや考えたことをまとめたりほどいたりシェアしたりすることが「はたらく」と繋がってるどころか、ぴったりとくっついている。
今ちょうど袋を開けているエンゼルチョコパイみたいなものだ。
チョコとスポンジとクリームのそれらを別々に振り分けることはできない。どっちみちわたしは、丸かじりされる運命のエンゼルチョコパイ(ビスコはがんばれば別々にできるからちょっと古い時代の産物)。

わたしが「はたらく」のは
お金を稼ぐためではない。
立派なおとなであるためでもない。
社会に貢献したいからでもない。

限られた人生を
思いきりあそび、やすみたいからだ。
それは「よりよく生きていたい」
という、とても自然な欲求。
はたらく、は、よろこび、以外の
なにものでもない。
しあわせ、以外の
なにものでもあってはならないのだ。

これは、現代社会の大多数の人々にとって受け入れ難い、理解や共鳴など到底望めないわたしにとっての「はたらく」だと思う。

そんな生温いもんじゃない、働くっていうのはなァ、自分のためでなく家族やまわりの人々の役に立つための、安定した暮らしを営むための我慢や忍耐を要する日々の強制行為なんだよォと反論を浴びるか、見向きもされないマイノリティの意見だろう。

そうなんですよ、みなさん。そのとおり。
それは、これまでの「働く」なんです。
もう「働く」からは卒業していいんです。
みんな自分の「働く」イメージを「はたらく」に変えるべきターニングポイントに、わたしたちは来ているんです。

だから、このコンテストのお題は、刺激的でとてもいい。
これからの時代は「はたらく」だよ!
と大企業のほうからきちんと先陣を切って伝えてくれているのだから。

ねえねえ、ほんとは何をしていたい?
好きなことなんでもいいんだよ。
誰とどこでどんなふうに生きていたい?
その心の声が「はたらく」と、自分の
本当の「はたらく」姿が見えてくるんだよ。

「いいねぇ、自分の得意なことがあって」
ずっとそんなふうに言われてきたけど
ぜんぜんちがう。
はたらく心の声と、たくさんたくさん
対話をしてきたからだよ。
「働く」より「はたらく」のほうが
軽やかで心地よくてうれしくて楽しい。

はたらく、は
「はた=側、を楽にする」が語源の言葉。
軽やかで心地よくてうれしくて楽しい人が
目の前にいたら、相手はどんどん
自動的に、楽になっていく。

先まわりして、はたを楽にしようと考えて
自分のきもちを犠牲にしたらだめだめ。
合わせなくて、応えなくて、いいんだよ。
この社会にはそれぞれの、役割がある。
みんないっしょだと、変になるんだよ。
思いきり、楽しいことをしないとにんげんは
はたがビビるくらい強い光を、放てない。

「ほんとは何をしていたい?」って
きちんとコミュニケーションを取ること。
自分自身の、腹の底と。
本来の「はたらく」は、そこからはじまる。
みんな本当は、ちゃんと知っている。
自分の「はたらく」完ぺきな姿を。

はたらく、をファンタジーから取り戻すために
今日はこんな暗黒の文章を書いてみた。
わたしにとってはこれすら「はたらく」時間。

さあ、冷めちゃったカフェオレをもう1回
ストーブの上で温めなおしてこよう。
ちびちびとかじるチョコパイが
今日もうれしくて、おいしい。


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