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【ソウル望郷】 池多亜沙子さん

今回の「東京望郷」は場所を韓国に移し「ソウル望郷」をお届けします。

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池多亜沙子さん
1976年生まれ。石川県金沢市出身。書家。韓国・ソウルの弘大(ホンデ)で夫でライターの清水博之さんとともに[雨乃日珈琲店]を営む。北陸中日新聞にて夫婦で「雨乃日珈琲店 ソウル・弘大の街角から」を連載中。

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 私の故郷は石川県金沢市の南端にある街です。金沢の中心部からは車で約20分。隣町には白山麓(※1)の玄関口があり、のどかな景色が広がります。
 両親と兄の4人家族。父は自営で建設関係の発注を請け負い、今も現役で仕事をしています。そんな父からは、何もないところから作りあげそれを維持することの大変さを学び、自分も将来は会社や組織に属さない生き方をしたいと考えるようになりました。一方、母は器収集が好きな人で、私が中学生のころひと目で惹かれた焼き締めの信楽焼の片口は自分の進路を考えるうえでの糸口ともなりました。こういうものが自分で作れたらどんなに素敵だろう、そんな興味が大きく膨らみ高校は工芸科に進み陶芸を学びました。ものづくりやものを見ることへの関心は母が与えてくれたもののひとつです。

 2006年ごろ、韓国に住む今の夫となる人と遠距離恋愛をしていたなかで、ふたりで拠点となる、人と繋がるような空間を作りたいという思いからソウルにお店をつくることになりました。私は金沢とソウルを行き来しながら準備をすすめ、2010年、弘大(ホンデ)(※2)に喫茶店[雨乃日珈琲店]をオープン。およそ2年間は夫がひとりで切り盛りしてくれ、私は2012年にソウルに移住しました。初めての海外生活。故郷と距離ができることに不安もありましたが同時に新しい暮らしを思うとワクワクしました。
 K-POPが好きだったわけでも、美容に興味があったわけでもない。私と韓国を繋げてくれたものが骨董です。陶芸を学んだこともあり、韓国の骨董に惹かれるものがありました。ソウルに移住する前の旅行者のころから訪れていたのが踏十里古美術商街(※3)。小さな店が何十店舗とひしめくなか、たまたま足を踏み入れた一軒があります。 
 店主は現在御年90歳を越えようかという李さん。サファリ帽にジーパン、時に夏フェスにでも行くかのような軽快なスタイルで迎えてくれる洒脱なおじいさんです。日本統治時代を生きた李さんは日本語が堪能で朝鮮陶磁や民芸の手ほどきを教わりました。偶然にも李さんも私と同じく書家で、私がソウルに移住して迎えた最初の新年、小さなそのお店で売りものを傍に追いやって賑やかに一緒に書き初めをしたことは振り返っても楽しいひとコマ。李さんは私がソウルに住んで初めてできた友人です。
 李さんから初めて購入したものは李朝後期の小さな蓋つき白磁壺でした。蓋と胴が合っておらず、詳しい人が見れば上下揃ってないことが分かるようないわゆる“上物”ではないのですが、なんとなく気に入って購入しました。今だったら購入しないような気がするのです。その小さな壺を見るたび、当時の新鮮な気持ち、未知の国・韓国の入り口に立ったころの自分を思い出します。
 あるとき、お店に掛かっていた「喜」という文字の青銅に心を惹かれ李さんに聞いたところ、「それは自分も気に入っているから売れない」と一度は言われたのですが、次にお店を訪れたときもついそれに視線を奪われる私を見て、李さんは「それをお店に飾ると商売がうまくいくから、次はあなたのお店に飾りなさい」と譲ってくださいました。ありがたく私たち夫婦のお店に飾っています。

 35歳でのソウル移住は一度人生がリセットされるようでありがたかったです。自分が外国人という立場になれたことで、外から日本を見られる機会を得たことは貴重でした。韓国では、助けようという気持ちに躊躇がない、考える間を置かずとっさに出る親切なふるまいに心をほぐされる瞬間にたびたび出合います。コロナによってお店も少なからず影響は受けましたが、お客さんからマスクを頂いたり、お店を気にかけて頻繁に足を運んでくださる方もいて、韓国の人たちの優しさを感じているところです。
 街の移り変わりもめまぐるしいソウル(※4)ですが、今年、私たち夫婦が営む雨乃日珈琲店は10周年を迎えます。始めた当初は5年続けばいいほうかな……なんて思っていましたがたくさんの人たちに支えてもらってここまで来ることができて、悲喜交交の場面を思い出しながらじーんとしています。

〈ソウル望郷/一段目・完〉

※1……日本三名山に数えられる白山。あとのふたつは、富士山、立山。

※2……美術系が韓国最高峰といわれる弘益(ホンイク)大学校を擁するエリア。インディーズ音楽の発信地としても知られライブハウス、クラブも多くソウルっ子、観光客ともにに人気が高い。

※3……地下鉄5号線踏十里(タプシムニ)駅からほど近く、朝鮮陶磁や李朝家具などの骨董品を扱う店が軒を連ねる。店主の審美眼によって品揃えにも個性が際立つ。

※4……流行に移り気な韓国の人々の特性に加え、店舗の賃料が契約更新ごとに値上がりする傾向にあり、ソウルの店の移り変わりは激しく以前旅行で来た店がもうなかった、なんてことはザラ。


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