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本物はひとりしかいない。

#ジョーカー を世直しの扇動者だとか、弱者の代弁者として社会に復讐してくれる #アンチヒーロー だと過剰に期待していた奴ほど、#アーサー 名乗るところのジョーカーに対しては、アンビバレント故に、結局期待されるジョーカーの重圧に底が割れたアーサーに対する、失望、憎悪や揺り戻しとしての、期待する側が持っていた社会への復讐心が、アーサーの感情的でしかなかった暴力より根深く、より自分の悪意に正統性があり、落胆した信奉者の中からは、「アーサーなんて所詮はジョーカーぶっただけの偽物で、俺こそが本物のジョーカーだ!」って名乗りたがる、更なる気違いが出てくるのは自然に想像がつく。
#戸井睦雄#阿部定 の起こした事件に興奮、「負けんようなほどえらいことをやって死にたい」的な対抗意識を表していたらしいのと同じに(それはちょっと違うかw)。
或いは、言及こそしなかったが、#宅間 の凶行に感銘を受けたのか知らんが、#加藤 がそのレコードに対抗してかせずか、期せずして凶行に及ぶのに、全く同じ日を選んだように。
俺は単に、犯罪アナリストとして犯罪は調べるが、犯罪を憎みこそすれ、何かを侵犯したり、法を逸脱する欲求はない。
だが、社会への復讐心は山ほどあるし、そりゃ殺してやりたい奴なんて、五十年以上生きてりゃそこらじゅうにいるが、のうのうと放し飼いにして放置している。
そんな低劣な人間の、チンケな欺瞞的人生を奪っても、俺の気高い精神性を貶めることとは、どう考えても釣り合わないからだ。
ただ、俺が過去に決定的に行動したことのひとつの結果として(無論犯罪ではない)、その後の歴史が決定的に変わってしまった事実は今も継続している。
そのことで、ある事象は完全に鎮静し、命脈を絶たれ、後は追々忘却されるのみにまで、俺はその流れにとどめを刺した(比喩的な意味です)。
だからある意味、もう事象として、どう周囲のその当時をねちっこく記憶しているバカが、その事実をほじくり返し、周囲に呼びかけ、その事象の伝説化や、あわよくば寝た子を起こそうと、ああだこうだ悪あがきしても、もうその #寝た子 が絶対に起きることはないのは間違いない。
それはなぜか。
決定的な理由は、俺が今もここにこうして、顔も名前も隠さず存在を主張しており、その事象が再び起きる可能性に対し、あえて一切言及することはしないが、俺が関係者に対し、わざと目につく場所で、調べようと思えば調べがつくようにしているからである。
なので俺は、折に触れ自分が #デコイ であると言明し、#要石 であると言っている意味はそこにある。
それほど、俺のしたことは決定的で不動であるが故に、後続のバカがいくらほじくり返そうが、ここまで四十年近く、そして俺が死んだ後のことは知らないが、少なくとも死ぬまでは、今後も重石となり事態が動くことはない。
極端なことを言えば、ある意味そのアピールのために、俺の執筆は様々に形を変えても、未だ続いているようなものだし、初め、俺はそのことを詩にして書き始めることから文章を書くようになったのである。
いずれ、何が俺のどうした所業によって停止したのか?いつか纏まった形にして告白しようと考え、手に入りうる限りの資料と、直接関係ないバカがどう詮索しようが、断じて俺にしか知りえない事実を頭の中にしまい込み、その気になればいつでも形にする準備、努力は一応継続している。
ところが、恐らくもうそんなに生きない俺に、あろうことか降ってきた、まさかの最後の真実、最後の過分な幸福によって、過去のそうした事実は矮小なものとなり、相対的/歴史的には重要なのだろうが、わざわざ苦労して明かすのも面倒になってきているのは否定できない。
そんなものより、人間などいつ死ぬか(殺されるか)分からないのだから、この最後の身に余る、俺にしか、その最高の価値が理解できない真実の幸福を、享受できうる限り享受する方が、残り時間を生きる上で有益だからだ。
よって、俺のなした偉業は露見せず、追い追い暴露する情熱も弱まって、ごく一部の、俺の昔日の働きの全てを知る者には、単に俺が堕落したと見えるかも知れない。
だが、それを成すために、文字通り人生の全てを捨てて、結局俺の決定的な動きによって、あるものの流れを止めることを実現したのだから、下心を持って立ち回っていやがったのか興味もないが、その後の人生を能動的に生きているふりをしておいて、あれもこれも手にした気でいる分際のバカが、今頃になって欲を掻き、動き回ろうと、何も変わらないのだ。
だったら同じころ、てめえの人生、他の全てを捨ててでも、俺と同じような動きに臨むべきだっただろう?
引き換え、一切を放棄して決定的な結果をもたらした俺が、その大業の割に、とうとう俺を狙って降ってきた過剰すぎる幸福に、反動から溺れてしまうのは当たり前じゃないか?と、言うに止めておこう。
要するに、言いようによっては、俺こそがオリジナルで、本物のジョーカーであるが故に、決定的に変わってしまったものがあると言うことだ。
いくらミームが拡散して、次の「我こそは真のジョーカー」たるバカが、後から、いかにも当時を知っているかのように何人現れようが、#ブルース 少年を決定的に孤児にすることに、例え間接的であれ加担してしまったジョーカーは、アーサーただ一人だけであり、この事実を変えられる奴はいない(しかも、今更ながら、#ジョーチル 犯行説と矛盾しない作りにもしている点は、前作の計算が行き届いているとつくづく感じる)。

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