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球技に勝って首を差し出す

自己評価のはなし。

自己評価を冷静に出来ている自信はないです。
おそらく、それに自信のある人のほうが少ないと思います。
文章を書いて公開したり、ましてや漫画書いてお金もらってるんだから
そのへんはどう言いつくろっても「おまえ、それなりに自分の価値を認めてるだろ?ん?ん?」ってなもんです。
でも、それでも、わからんです。
自分では、自己評価を低くせねばせねば、という思いが常にあります。

これは、わたしの個性というよりは世代的なものだと思います。
謙遜は美徳であり、能力は秘めてこそナンボ、才能は見出されるべきものであって自ずから売り込むなんて恥ずべき行為だ。…という親世代は、そんなに古いものではないと思います。
ヘタしたら今の若い親世代にだっている。
うちの親なんか戦中生まれなもんだから、それこそ
「自分を褒めるな自惚れるな。まず自分が間違っているという前提で生きろ」
という躾をされたもんです。
今の自分をいちばん最低の位置に認識し、自己主張をせず、常に反省とさらなる努力を己に課していけと。
たしかに、それが良くないばかりだとは思えません。
やっぱり日本では「俺が俺がいやワタクシが」って態度は好かれにくいとは思うし。
けれどやっぱり、程度の問題ですよね。
何が何でも、と、そんな一辺倒な生き方していると、わりととんでもない目にあったりもします。
心無い誰かに当たってしまったときにまで、せんでもいい反省をしたりしてさらに付け込まれたりあるいは病んだりします。
世界が親切で誠実で公平であるという前提で盲目的に自分を罰していくのって危険。
わたしは最近、やっとその檻から脱けられた気がします。
今は無事、ほどよくずうずうしいヒトになりました。ああ目出度くない。
いや、病むよりはよかった。
正直、ほっとしてます。


けれど、心の中にはどうしても
「自分を低く評価しておきたい」という欲求は、消えずに残っているのです。
おそらく、その裏には
「自惚れることは恥ずかしいから、自分のことは低く見積もっておくに限る」
という根強い思い
「だいたい、客観的で正当な評価とか無理じゃね?」
「自分を高く見積もった結果、あとでガッカリしたりさせたりとか嫌じゃん」
みたいな恐れがあると思われます。

何より、キモチイイのですよ。

自分を卑下するのってキモチイイ。
明らかに、脳内に快楽物質が放出されるのです。
「正しい行いができた!」「宿題終わった!」などと同じ類の、ごく幼く根源的な。それは達成感にとても良く似た快感。
自分を貶め嫌うことによって、やっと自分を認め好きになることが出来るという矛盾。この矛盾が、矛盾なく脳内に存在します。
これはもう、わたしの根っこに息づいていて、どうしようもないです。
育った場所・時代・教育、育ててくれた親などによって、価値観(の根っこ)はつくられている。

球技は神の前で行う神聖なる行為であり、勝利して生け贄となることは無上の悦びである…という、いにしえの人々の価値観、その快楽を、
共感はできなくともリアルに実感はできる。そんな今日このごろ。

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