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一隅を照らすあたたかな光に~映画「すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ」感想~

「逆詐欺映画」って一体みんな何を観たんだ

 すみっコぐらしの映画が放映していることは聞いていたが、「逆詐欺映画」というトレンドを耳にし、字面の凄さにおののいた。どんなとんでもない展開がすみっコたちに待ち受けていたのか。聖杯を巡って戦いはじめるとかだったらどうしよう。声はついてしまうんだろうか…。部屋のいつもの定位置のすみっこで情報を検索してながら不安になっていた。観るしかない。隅を愛する者として、すみっコぐらしにハマったものとして…!

 結論をいうと、いつものすみっコたちだった。すみっコたちが出した結論は、いつものすみっコたちそのままの在り方だった。私は一緒に観に行ってくれた人に「すみっコたちはいつもああいうことをしている」と繰り返し言いながら泣いていた。

すみっコぐらしとの出会い

 映画の話をする前に私とすみっコぐらしについて話したい。私とすみっコの出会いは大学の学部時代にさかのぼる。「すみっコぐらしは深い」と先輩が言っていて半信半疑で話を聞いた。「これは…沼!?」、高校生の頃なんとなくかわいいからという理由で買っていた下敷きのキャラクターにとんでもない深さがあったとは思いもよらなかった。大変わかりやすい紹介を公式もしてくれているので見てほしい。

 小学生の子たちがメインターゲットということもあって、設定そのものはかなり平易で分かりやすく描かれている。しかし、シンプルでいながら深さが生み出されているとんでもないコンテンツなのだ。すみっコたちはそれぞれがすみっこにいる理由がある。寒がりのしろくま、自分探しのペンギン?、人見知りのねこ、のこりもののとんかつ、秘密を抱えているとかげ…。真ん中に憧れながらも、やっぱり真ん中には行けなくて、それでいてすみっこが落ち着く。すみっコたちは教えてくれる。「このままでいいんです。」自分の良くないところ、直した方がいいところ、それも含めての自分である。すみっコぐらしのメッセージに胸を打たれる人も多いのではないだろうか。
 かくいう私はすみっコぐらしの良さに胸を打たれ、本を片手に周りの人間に布教していた。手ごろな値段でフルカラーで買えるのが素晴らしい。

メディアミックスの完成形としての映画すみっコぐらし

 一人のすみっコファンとして、「逆詐欺映画」という評判より、この映画が如何に原作準拠の映画化であるかということにもっと光を当てた方がいいのではないかと思う。
 
 今まで私が知る範囲では、すみっコぐらしは絵本や四コマ、グッズテーマ用の簡単なストーリーのみが展開されており、長編作品は今回が初めてである。販促PVなどでイラストを用いて動いた映像はあれど、こんなに丁寧に長い時間をかけてすみっコたちが動いているのは初めてだった。絵本で見た、イラストで見た、グッズで見ていた愛しいすみっコたちが動いている。その動きもまた、私が頭で思い浮かべたのと同じ、いや想像以上の動きが目の前のスクリーンで展開されている。映画館に行くと動いたすみっコたちに会えるのである!!!!!これがどれほどの感動をもたらしたかは筆舌に尽くしがたい。


また、声が付かなかったことで頭の中で思い浮かべていたすみっコぐらしがそのままスクリーンに映し出された感覚が強くなった。下にある記事曰く、原作者のよこみぞゆり先生が「すみっコたちの声が想像できない」とおっしゃったことから映画にする際に声がつかない方向で動いたそうである。原作者のよこみぞ先生にただただ感謝するしかない。

 これまで、大好きな作品が映像化された時に落胆したことはなかっただろうか?幾度となく頭の中で想像された自分の中の原作のイメージ世界と違い、その違いに胸を痛めた経験はなかっただろうか?原作者がメディアミックスを承認したから仕方ない、原作者にとってもこれまで知らなかった人達に作品が届くきっかけになることだってあるからいいんだ…と自分に言い聞かせながらも、わがままな作品への愛が自分の中で暴走し、ただただ悲しむしかないということはなかっただろうか?
 メディアミックスというのはたくさんの人が関わって作り出されるわけで、そうなると当然利権も絡んでしまうだろう。映画に声をつけて、有名俳優や有名声優を起用すれば、お金はかかれど広告としても有効だったはずだ。そんな中で、声をつけない選択がどれほど奇跡的なことだったのだろうか。

 詳しいことを言うとネタバレになってしまうが、なぜこのキャラがこの行動を起こしたのか?というの行動原理がかなりはっきりとしている。元々のキャラクター設定が平易かつ深いということもあるだろうが、ストーリー上でこのキャラならこうするだろう、すみっコたちならここはこうだろうといったところが徹底的に納得できるように作られている。
 キャラクターが自然と動くのは結構難しい。話の都合上、このキャラにはこうさせたいから、とか葛藤を持たせるためにあえてすれ違わせたとか、そういった作者側の動かしの意図が見えてしまうことが多い。
 そんな中で映画すみっコぐらしは、なぜこのキャラがこう動いたか、こうするのかというのを徹底的に考えつくされた上で丁寧に描写されている。だからこそ観客側も動いているキャラクターをよりリアルに感じることができる。

私はメディアミックスの完成形というのは、原作のイメージのまま、他のメディアがより原作の可能性を提示して広げてくれることだと思っている。その意味で映画すみっコぐらしは、普段のキャラクター商品としての展開や本では見られない動くすみっコたち、それも長編作品としてのすみっコたちを見せてくれた、メディアミックスの完成形としてふさわしい作品だったのではなかっただろうか。

すみっコたちのやさしさ、世界のやさしさ

すみっコたちは互いを思いやる。今回は絵本の世界でひよこ?と出会い、いろんな絵本の世界の中を冒険するわけだが、ひよこ?に対していろんな場面でいろんなすみっコがひよこ?のことを気にかけるシーンがある。すみっコたちは、自分の経験から他者の痛みがわかるキャラクターたちである。だからこそひよこ?の痛みを分かち合ったり、手を差し伸べることができる。

映画を観て感じたこととして「今まで自分は人にやさしくできただろうか?」「人が自分を気にかけてやさしさを差し伸べてくれたことがあったなあ」ということがある。すみっコたちの行動一つ一つは小さなことで、なんでもないようなことなのかもしれない。だが、隅っこにほこりがいつの間にか山と積もるように、やさしさが大きな力となることをすみっコたちは教えてくれる。それと同時に自分の周りにも似たようなやさしさが存在していたことに気づかせてくれる。

最澄の言葉に「一隅を照らす 此れ則ち国宝なり」という言葉がある。国の宝とは、金銀財宝ではなく、自分自身が置かれたその場所で、輝くことのできる人こそ国の宝であるという意味らしい。私も学校の隅っこでこの言葉を見ていただけなのであまり詳しくはないが、すみっコたちにふさわしい言葉のように思う。

すみっコたちは、自分たちなりに、自分のできることを映画の中で行っていた。たとえ、やさしさが届けられなかったとしても、それでもできることをみんなで考えつづけて、一緒に行動できる世界が広がっていた。そのあたたかな気持ちは観ている私たちにも伝わったのではないだろうか。

一隅を照らすあたたかな光を見たような、そんな時間が映画すみっコぐらしにはあった。 

 

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