見出し画像

そのものさしを華麗に仕舞え

根底としてかなり負けず嫌いなので、勝ち負けが存在しないまたはその判定が複雑なことに取り組みたいというのがある

あのうこれは友人の投稿していたポストなのですが、思考停止するほど焦りました。

私はかねてから勝負がつくものが苦手だと明言しています。
これに気がついたのは高校の時に友人の部会の試合に応援へ行った時で、夏を懸けてずっと練習していた陸上競技がたった2分程度で無駄になってしまうような感覚に心底恐怖を覚えた時です。そももそも勝ってなんぼとは思っていないのですが、当たり前のように負ける人が決まって、どんどん試合は進行していく。みんな普通にそれを受け止めて泣いたり笑ったりしている。その状況にどうしても全体の喜びを見出せず絶句といったところでした。
思えば水泳もバレエも「みんなで楽しく体を動かそう」のフェーズから「タイムを競ったり決められた型にむけて削り上げていく」ようなフェーズになった途端に嫌になって辞めてしまいました。厳しいコンクールなどを見ると今も心が痛みます。でも表現力を見せるような演目と場は好きです。
テストは、できる人がみんなできるからいいと思うのです。自分も教科によってはできるしそうでないものもある。得意なものが何かあったらいいねと。何もどこでもオンリーワンの勝者を決めるために争う必要はないと思うのです。

そう、そもそも私は自分のことを負けず嫌いではないと思っています。
別にゲームで負けても勝つまでやりたいとは思わないし、勝つことだけが楽しいと思わない。勝つためにすごいめんどくさいことをたくさんしなくてはならない、でもベつにそれをしなくてもゲームを楽しめる、なら楽しく遊べれば良いや〜なヤツです。故に、結構すぐに負けます。うっかり勝ってしまったせいで一緒に遊んでいた負けず嫌いな人が拗ねて楽しくない空気になるのも好きではないです。
過度な負けず嫌いははしたないといったような意識もなぜか自分の中にあり、両親ともスポーツをやっていたのにどこから来た感覚なのか…ふしぎです。判定にゴネたり、執拗に攻撃をしたり、入念すぎる準備をしたりしていることを、なんだか冷めた目で見てしまう。
言い表すのが難しいのですが、フィクションで人が負けず嫌いをやっている分には別に良いのです。あしたのジョーもスラムダンクも名作だと思うし、強くなりたいという気持ちに対応するきちんとしたルールと歯応えのあるライバルがいて、ドラマが生まれていくスポーツなどというのは、健全で素晴らしいことだと感じます。でもやっぱりオリンピックやサッカーW杯やWBCや箱根の終盤ってまともに見れない。決まる瞬間が嫌すぎる。勝敗という定規が強すぎる世界は怖いし苦手と感じます。

私の自己分析はこうです。私は勝敗がつくことよりも、ものさしがたくさんあるものが好き。正解が一つでなく、色と入りどりの魅力がある分野が好き。
だから、スポーツよりも、美術や舞台芸術や現代音楽が好き。それはやることも見ることも作ることも。
AはこうだけどBはこうで、それぞれに違う素晴らしさがある。今回Aが選ばれたのはよりマッチしているだけでそれはBが劣っているというわけではない。そういう考え方が自分にはしっくりくるのです。
解が一つの理系の分野に対しても子供の頃は同じようにつまらなく思っていましたが、それについては解法が多様にあり、決して誰が考えても同じではないある意味芸術のような世界だと捉えてからは、その考えを撤回しました。
就職活動をするまで、勝負事が嫌いというのは当たり前の感覚だと思っていましたが、サークル活動で同期と話していた時、違う人もいるのだと知りました。芸術系のサークルでしたが、その同期は高校までスポーツをやっていた。曰く、勝ち負けがつく方がはるかに頑張れるし気持ちが良いというのです。努力した分だけ報われる、紛れもない結果を手に入れることができる、それこそがモチベーションになるのだそうです。こちらは目から鱗だし、向こうも私の考えを聞いて異星人を見るような顔。
そんなに頑張って一つの基準で負けと言われたら屈辱じゃないかと私は思うわけですが、基準が分からないまま感性で努力しなくてはならない方が五里霧中で怖いというのです。

ここで私の自己分析は固まりました。勝負ごとが嫌いであると。
故に勝ち負けにも拘らないのだと。
ここまで整理して先ほどの投稿に立ち返ると、私の勝負事が嫌い=負けず嫌いではないの等式を易々と破壊するものだと気がつくでしょうか。

根底としてかなり負けず嫌いなので、勝ち負けが存在しないまたはその判定が複雑なことに取り組みたいというのがある

ということはもしかして私も負けず嫌いなのか・・・・・・?

いやいや。いやいやいや。

ここで気がついたのは、多分、私は“負けず嫌いに思われること“そのものにすごく拒否感を覚えたことです。
自分で私は負けず嫌いだと言ったことはないし、言える気もしないし、やはりそうでないと自分では思っています。
もちろん、負けて楽しいとは思いません。チリっとした悔しさが私のなかにない訳でないない。けれど、コンマ何秒で消化してしまうのです。
ベースに「負けても楽しい」みたいな精神性があり、尊大な自己肯定感とポジティブ思考により、勝つことでしか得られない快感よりもずっと身近な「できて楽しいね」の泉に飛び込んでしまう。これは避けられません。
座右の銘はThink on the Bright Side。いつ何時も、転じて考えればプラスの要素があると信じてい流のです。

同時に成り立つこととして、“負けず嫌いに思われるの嫌い“でもある。
つまり、負けるのは嫌いではないけど、誰かが負けず嫌いをやっているときの泥臭さを直視したくないという気持ち。人間が負けていて嫌な思いをしている状況がすごく嫌なんです。想像するだけでヒャンってなっちゃうくらい。
人の悔やんでいる負けのシーン、いかにその後のためになろうとも、フィクションでしか耐えられません!!
だから、自分がその状態だと誤解されたくない。言っちゃった、、、。
いやはや、そうなんだなあ。うんうん。

今日また、新たな発見が私史に刻まれました。

私は、自分が負けることはあまり嫌いではないが、人が負けている状況はとても苦手なので、人が負けていない環境を求めた結果、自分も勝ち負けのつかない分野で活動している。

これです。負けず嫌いの人が見たら軟派すぎて失望されそうですが、人は人ということでお願いします。あなたの負けず嫌いは尊重します!

ありがとう発見を与えてくれた友よ!変わったらまた訂正します。


parfait theories🍴
ビリーの人生の中で培った持論をまとめておきたいという試みです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?