退屈と孤独の密な関係、15年かけて学んだこと①

街の中を歩いていて、ふと退屈な気分になった。
そのあと不意に父のことを思い出して胸が締め付けられた。
もう他界してしまったけど、定年退職した後の父はどんな思いで毎日を過ごしていたんだろう…私の勝手な妄想が渦巻いた。

この「退屈」について思いを巡らせてみたところ、大切なテーマに辿り着きそうなので書いておこうと思う。多くの本でよく取り上げられているし今更って気持ちもある。でも知ったような気持ちでいるのと、ストンと腑に落ちるように感じ得ることは違うものだ。本を読んで感じることと自分の体感的なものとは同じではないはずだ。私の思考整頓を目的として書くのだから良しとしよう。

退屈な感情はしばしば恐怖心を伴う。
人は何かやることがないと退屈してしまい、それが高まり過ぎると不安になり、場合によっては恐怖心に苛まれる。仕事というのは生活するために必要な術であるけれど、極端な話、退屈を紛らわせられる手段でもあると思う。
何らかの事情で仕事が出来なくなった人、出来ない人、定年を迎えた人にとっては納得しやすいのではないか。
仕事したくない、職場の人に会いたくない、とにかく休みたい… (鬱状態に伴う深刻な事情の場合は別として)誰もが普通に口にするような感情レベルでの場合、いざ嫌なことから解放されたら数ヶ月間は喜びに満たされると思う。
人によっては数日数週間単位かもしれないけれど、数ヶ月単位ならば健康的な休息になるかもしれない。しかし年単位となると話はガラリと変わってくる。退屈な時間、暇な時間が手に負えなくなってくるからだ。

何の予定もない。特にやりたいことがない。
その状態に耐えられる時間ってどれくらいの長さだろう。
「何もしないこと」をすることは難しい。
『退屈は孤独を生み出す』と私は信じている。

長くなりそうなので結論から書いておくと、私は孤独から逃げないように努力している。きっと一生続く努力になるはずだ。退屈に関しても私なりの捉え方が見え始めているので、これに流されて自分を貶めることだけは避ける努力をしていくつもりだ。どちらも道半ばだけど、過去の私と今の私には良い意味での大きな差がある。完璧な人間はいないし完成なんかしない。いつも継続中なんだ。

絶対的な事実として孤独はデフォルト的なものなのだから、そして孤独ほど人を苦しめるものはないのだけど逃げたところで逃げ切れるものではないのだから、孤独と上手に共生することが何よりも大切だと信じている。

世間というかマスメディアに強い影響を受けたら駄目だ。一時的で部分的なものを切りはりして見せつけられて、それが普通であり全てであると思い込んでしまう人は数えきれないはずだし私もそうだった。
常に何かをしていなければ危険だと思わせる何かがある。
他人と比べるための条件が無限に揃う世界を基準にしたら苦しみしか生まれない。他を「知る」ことは役に立つことが多いけど、どうしても自分と比べてしまう性があるのが人なんだろう。

退屈することは当たり前。孤独を感じることは当たり前。
ただ、それに恐怖することは当たり前ではないはずだ。

不安を感じることはなくせない。その不安感をコントロールできるようにすることは、恐怖感へと増長させないステップになるだろうと思う。

恐怖感って繰り返すけど、決して大げさではないと思っている。
実際に、仕事もなく誰かと会う予定もなく完全に一人きりで何日も何週間でも過ごしてみたら分かるはずだ。
退屈になり孤独感が強まるだろう。そうなる前にその状態に耐えられなくて、好きでもない仲良くもない人と会う約束をしちゃうものではないだろうか。
耐えられないということは既にそこには恐怖が存在するからだ。

ストンと感じたことについて書こうとしてるのだけど、前置きが長くなってしまった。


次の記事につづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?