たとえ死の恐怖に囚われても。

人の意識。
「何か」に意識を向ける。
その「何か」に意識が囚われると、そればかりについて考える。
スマホで検索するのも、その「何か」ばかり。
この囚われの度合いが強くなる。強制的にストップがかからない限り、ずっと囚われ続ける。

その「何か」が、「いつか必ず死ぬという逃れられない事実」になってしまったのが今の私。

トイレに行きたくなる。お腹がすく。眠くなる。
これらの生理的な現象のおかげで、一旦その囚われから逃れられることが出来る。

好きで意識したのではない。
ある日唐突に、強制的に気がついてしまった。
もちろん、その「いつか必ず死ぬという逃れられない事実」について、幼少時から知っていた。幼い頃、いつも考えていて怖かった。
その怖さのレベルは、たぶんきっと、普通に一般的な大多数の人が体験する怖さのレベルと同じくらい。

小学生の頃に、数年間囚われて苦しかった期間は存在したけど、小学6年生の頃は楽しかった思い出がたくさんあるし、無邪気に楽しい中学時代も過ごした。
少なくとも中学、高校の時代に死に囚われて苦しんだ記憶がない。

なのに再び、ある日唐突に、強制的に気がついてしまい、囚われてしまった。

「死ぬのが怖い」っていう恐怖に気づくことなく、もしくは気づいても囚われることなく、人生を生き抜いてしまう人は多くいる。
(正直、うらやましいな…)


囚われ始めてから2年半が過ぎている。
いつまで続くのか。とてもクタクタなのだけど、これを横に置いたり先延ばしするのが怖くて、とことん囚われまくろうと覚悟もしている。
だって、もし80〜90歳ぐらいになって(そこまで無事に長生きさせてもらえるという前提で考えて)再びこの恐怖に直面したら、その恐怖に向き合える自信がないし想像するだけで恐ろしいから。
これってパニック発作の予期不安に似てるな…

囚われるというのは脳的な要素が強そうだとも思う。
思考の癖とか、認知の歪みとか。
極度のストレスによって起きた「気づき」かもしれない。


「いつか必ず死ぬという逃れられない事実」は変えることが出来ない。
変えることが不可能なことを何とかしたいと考えてしまうと苦しみは終わらない。
変えられることを何とかしようとする。
「いつか必ず死ぬという逃れられない事実」に対する自分の「反応」を変える。
考えないようにするのではなくて、考えてしまっても、どう感じるかの「反応」を変えるしかない。

そして、その変化を今すぐに求めないようにする。
苦しみからは即効で逃れたいのは当たり前なのだけど、即効で逃れることは再びぶり返すことが多いように思う。
確実な変化というのは、ある程度の時間が必要だから。

5年前の自分を思い出すと、ずいぶんと変化してることがわかる。
10年前の自分は別人のように思う。そこに希望を持ちたい。
今こうして苦しんでる自分だって3年後5年後には変化してるはずだから。

囚われながらも、動き続ける。恐怖しながらも、動きを止めない。
ときどき、身もすくんで動けなくなるときもある。
それはそれで良いから、少しでも余裕が出た瞬間に、再び動き始める。焦らない。
そうやって、ゆっくりでもジグザグでも、動いていれば何かが変化していく。


この世の中に存在した人間は皆必ず死ぬのに、一生懸命に人生を送っているのに、最後の最期にたどり着く「死」が、ただの悲劇だったり苦しみだったり恐怖でしかありえないとしたら、それって変だと思う。
宇宙とか自然とか、信じられないくらい神秘的だから。
人間の肉体だって意識だって神秘的だから。
頭では理解できない摂理があるのだと信じたい。
せっかく両親が大切に頑張って私を育ててくれたのだから、この世に生を受けて良かったって思いたい。

今では当たり前なスマホも、10数年前には当たり前じゃなかった。
これから先の10年後に、今は考えもしない何かが当たり前になっている可能性もあるということ。
個人的な願望は、「死」についての何かが発見されていて欲しい。

この世に存在する全ての人間や動物が安心して生きられますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?