退屈と孤独の密な関係、15年かけて学んだこと③

先日の記事から拾い出したこの部分について、あと少しだけまとめておこう。

これといった持続するやりたい事を持てなかった私にとって、この15年間は大きかった。その状態になる以前は、短期大学を卒業して社会人として16年近く働き続けた時期もあった。両極端の生活を経て、ようやくバランス感覚を保てるようになった今だからこそ見えてくるもの、理解できることがある。

短大を卒業して新卒で就職してからの生活は退屈とは無縁のものだった。
体験すること全てが新しくて解らないことばかりで、覚えて慣れることに必死だった毎日。ストレスだらけで消耗していたけれど刺激的な毎日を謳歌した20代。

毎日仕事で忙しく休日にも何かしらの用事が入っていて、一人きりで過ごす時間は限りなく少なかった。あの当時の自分は一人になる時間を恐れて、どのようにしてスケジュールを埋めるかに一生懸命だった記憶がある。

なんであんなに怖かったんだろう。
若くて健康で忙しくて、今ならばむしろ一人でゆっくり過ごす時間を強く求めるくらいに慌ただしかったのに、それでも暇な時間が怖くて孤独を感じていた。
目の前に広がる将来に対して怖気付いていたこともあったし、かといって今現在に集中することも難しかった、宙ぶらりんな年代。

当時感じていた退屈さというのは、一人で居ること、ただその状態そのものだった。実際には、友達や恋人と一緒に過ごしている時だって退屈な感情は存在していたのだけども。それでもその退屈さを共有する誰かが必要だった時代こそ、私が未成熟だった証だと今でははっきりと分かる。

唯一私を芯から慰めてくれたのは、読書と映画だった。
今のように知りたいことを速攻ネットで調べられる環境はなかった。悩んだ時や不安な時、答えを求めるように読書をして本の中の文章に救われてきた。
寂しい時こそ、一人で映画を見に行った。一人で映画を観て、一人で喫茶店で時を過ごす。その時間にとても癒されていた。

一人で居ることに怯えていた私にとって、癒される時間は一人で本を読んだり映画を観ることだった。誰かと一緒に居ないと不安だった私は、誰かと一緒に居る時の方が苦しいことが多かった。
それなのに一人で居ることを肯定できなかったのは若さが理由だったかもしれないし、世間一般的に結婚することが幸福だとまだ信じていたからかもしれない。

そんな私も30代に入って恋愛の延長線上に結婚というイベントがあり、一時的に心の安定を得た時期があった。
専業主婦への憧れがなかった私は仕事を続けていたので、自分の時間を持て余すことは無かった。仕事をして家事をする生活というのはとても忙しかったからだ。
そんな生活が一生続くものだと思っていたのだけど、色々なことが重なり離婚して、また一人になった。

この時期を境にして、「孤独感を伴う退屈」に人生が翻弄されていった。

今でも良く覚えている感覚がある。
別居中で実家には戻らず一人暮らしを始めた時期のこと。ある晴れた夏の日、何の予定もなく一人部屋にこもっていた時に、とんでもなく退屈な気分が私を襲った。退屈すぎて怖くなり、どうしたら良いか分からなくなってしまった。
一生懸命働いてた仕事もなく、パートナーとも別れ、やりたい事も趣味もなく、なぜか全く本を読みたい気持ちがなかった。虚無感と孤独感の闇の中にいるようだった。

その日にたまたま連絡をくれた同級生がいた。
絶妙なタイミングにただ飛びついて時間を共に過ごした。
今でこそ強く思う。
あの時一人で居ることが出来たなら、本を読むことを思い出していたならば、その後何年にもわたって自分を激しく傷つけることはなかっただろう、と。
だけどそれは今の私だから思うのであって、この今の私はその当時の経験を経て至ってるのだから、あの時の私は一人では居られなかったのだ。

自分が手に負えない退屈や不安を紛らわそうとして、誰かとの出会いを求め、会うキッカケが出来たらその関係性が長く続くように願った。

だけど、どの人間関係もあっけなく終わった。しかも自分も相手も傷つけた。
冷静に落ち着いて考えれば分かるのだけど、本来の自分が求める相手ではなかった。自然に心惹かれ会う関係性ではなく、無理矢理に興味を持とうとしたり好きになろうとした。

一人で居ると退屈する、退屈すると孤独を感じる。
この感情の流れは仕方ないにしても、退屈した時に向かう対象が「人間関係を何とかすること」に集中したことが苦しみの原因となった。
仕事を再開できれば良かったのだけど、何に取り掛かっても全く続かなくなった。当時は鬱症状もひどく月の半分近くは寝込んでいたので、いわゆる健常者の中で仕事をする生活は私には出来なかった。

全てが悪循環の中で、仕事に就く事はできず、退屈を紛らわそうと試みては失敗し、孤独感を強めていった。苦しくて長い年月だった。

今、寝込むこともなく落ち着いて生活できていることが奇跡的に思える。
コロナ禍が始まって随分と回復したように思う。コロナ鬱という言葉を聞くけど、私の場合は反対に調子が良くなった。
テレビを持たない生活も私には快適だし、人と比較しないことを徹底して意識したことも良かったのかもしれない。一人で過ごす時間を肯定出来ているのも良いのかもしれない。やっと、成熟した人間へと歩んでいくための一歩を踏み出したのかもしれない。私は晩熟なタイプだ。

過去の反動もあるのか、今の私は本を読める喜びでいっぱいだ。
一人でいることを恐れて、退屈を恐れて、本来の自分が求めていない人との付き合いをすることはなさそうだ。過去の経験から学んだことはとても大きい。

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