退屈と孤独の密な関係、15年かけて学んだこと②

先日書いた記事の中で、こんなことを書いた。

何の予定もない。特にやりたいことがない。
その状態に耐えられる時間ってどれくらいの長さだろう。
「何もしないこと」をすることは難しい。
『退屈は孤独を生み出す』と私は信じている。

退屈が全く悪いように読めてしまうかもしれないけれど、それは少し違う。
「何の予定もなく、何か具体的にやりたい事がなく、やらなければならない事がない」時の状態が、「本人にとって耐え難いもの」が退屈であると思っている。
そして、その状態にいても苦痛でないならば、それは退屈だとは思わない。

突き詰めてしまうと、何もしないことがどのような状態なのかは定義できないのだけど。(ここでは何も ”出来ない” 深刻な状況は含めていない)

仕事があるということは、生活するための収入を得るという目的以上に、毎日を生きていくためのリズムなり「張り合い」を与えてくれる状態だと思う。
かなり極端に雑な表現をするならば、退屈を避けるために人は仕事をするのではないだろうか。
生きていくために働かなくちゃならないから嫌でも我慢して働いている人々が、もし生活に困らない収入を得て強制的な仕事から解放されたとしても、「やりたいこと」がなかったらひどく退屈するはずなんだけども、多くの人が仕事からの解放を願っている。前の記事に書いたように、それが数ヶ月間のことならば自由を感じる喜びの時間になるだろうけれども、何年も何十年もそれに耐えられるかといえば甚だ疑問だ。

もちろんの事だけど、鬱状態にある人は無理をしてはならない。そして難しいのは鬱状態の人が仕事から解放され休息したあと、どうやって社会に復帰していくかだ。当事者がこうありたいこうして行きたいという道を持てれば(仕事という形にとらわれる事なく)幸運な方なのだけど、皆が皆そうではない。

これについては主題と話が変わるので今ここでは書かない。
世の中は健常者と呼ばれる健康で当たり障りの無い人を中心に回っている。
それだけは確かで、当たり障りがある人にとっては苦しみの源でもある。
無神経で想像力に欠けているのが世間一般であるので、それらに属せないとしても卑下してはならない。と同時に、世間一般から外れた場所にいるとしても、無神経で想像力に欠けた自分になるのは避けたい。

自分自身このことを忘れずにいようと思っている。

頭の中だけで考えたことではない。
私自身、仕事が出来ない状態を15年近く続けていて体感しているからだ。
その15年間のうちには、仕事ではないけど予定として組み込まれたやらなければならない事があった年数があり、予定がなくなり膨大な自由時間があっても仕事ができる心身の状態になかった年数があった。

これといった持続するやりたい事を持てなかった私にとって、この15年間は大きかった。その状態になる以前は、短期大学を卒業して社会人として16年近く働き続けた時期もあった。両極端の生活を経て、ようやくバランス感覚を保てるようになった今だからこそ見えてくるもの、理解できることがある。

現在は翻訳の仕事が出来るように勉強している。
退屈が私を「苦しい孤独」に導かないように。
「苦しくはない孤独」という孤高の状態を目指していくために。


次の記事につづく



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