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「十二人の怒れる男(1957)」考察感想


めっちゃおもろかった


<考察・感想(ネタばれあり)>
事件の事実は分からないままということが肝になっていて、「事実」よりも、議論するその態度や意思決定の方法に焦点が当てられていると感じた。

私の身近でもヌルっと物事が決まりがちだが、「本当にそれでいいのか」、「その判断に責任を持つことができるのか」というに点において、一度立ち止まり話し合う事が重要だと考えた。
少なくとも「被告人の有罪に合理的な疑いがある場合、無罪と判断する」(映画では出てこなかったけど、疑わしきは罰せずと同じかな)という原則があると仮定すれば、映画の議論によって11人が「有罪=合理的な疑いがない」という状態から「無罪=合理的な疑いがある」に変化したことは、この原則を守るために議論が多いに役立ったことを表しているのだろう。
もし、この映画の議論なしに陪審員全員が有罪と判断し、被告を死刑にした後、偶然合理的な疑いの余地があることに気づいたら、陪審員は原則が守れなかった(無罪の可能性がある人間を死刑にしてしまった)と後悔するのではないだろうか。

当然被告人が本当に犯人の可能性もあり、映画の結論は間違っているかもしれない。8番陪審員(最初から無罪主張)の感情にまで訴える様子を見るに、本当は有罪だと知った上で被告人を助けたい何らかの理由があって行動したのかもしれない。
だが、冤罪が多少紛れ込んでも有罪判決を増やす社会ではなく、冤罪をなくし無罪判決の数を増やす社会を実現すると決めている(疑わしきは罰せずの原則)なら、映画の細部まで深堀った議論、8番陪審員のような同調圧力に屈せず疑う余地を主張する人は有益だろう。(もし疑わしきは罰すの原則がある場合でも「時間をかけた・慎重で真剣な議論」は同様に必要かもしれない。どこまでの範囲を罰するかなど)

結論として、目的・判断基準がなんであれ、責任が持てる結論を出すためには、この映画のような全員が自由に意見を言えることを前提として、腰を据えた理性的な話し合いが重要になると考える。

また、現実世界において、全員が納得するまで行う話し合いが難しい場合もあると思うが、その時は特に重要な案件(生死にかかわること・どうしても譲れないこと)だけでも、結論に対して「合理的な疑い」を挟む余地がないか考え続けなければいけないと考えた。

あと、真剣な人間ってかっこいいね。


(画像出典https://tanimonblog.com/12angrymen/)

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